だから、もう眠らせてほしい

最近SNSなどを見ていると、末期の癌患者であるという本人発信の書き込みを見ることが時々ある。以前は末期癌患者本人の意思に直接触れることはほとんどなかった。

 

癌になってしまったら、余命を宣告されたら人生が終わってしまうのではという今までのイメージを覆し、むしろ真摯に大切にそしてマイペースに生きることと向き合う人が多いように思う。

 

著者もまたSNSを通じて、今まで気軽に話題に出ることは少なかった安楽死というものに問題提起している。医師である著者は緩和ケアを専門としている。緩和ケアとは癌などの重篤な病を被った患者の肉体的、精神的な負荷を軽減し、生活の質(QOL)を改善することを目的とした措置である。

 

著者のもとを訪れる二人の癌患者もそうである。キャラクター、生まれ育った環境、選ぶ治療方法は違えども、今ある生を大切にしようとしている。そして、そのうちの一人は安楽死を望んでいた。

 

安楽死を巡る世界と日本の情勢について、専門家や癌患者自身との対話を通して綴られる。よく他国の安楽死の情勢を参考に、対して日本ではと語られることにたいして、安易に表面上の制度だけを取り入れることのリスクなどがわかりやすく語られている。

 

また安楽死を望む患者とそれを受け入れられない家族を通して、この話題が議論される際に一番難しい、死とは個人のものなのか家族の(社会的な)ものなのかという問題提起をしている。

 

癌患者は癌という病にかかった時に、世の中から特別な存在に括られてしまう。むろん患ったことによる精神的なショックを受け入れ、負担の多い治療を受け、肉体的な苦痛を抱えることは日常生活にはない事である。

 

しかし人は病にかかった瞬間に別の人間に変わってしまうわけではない。患ったとしても自らが望むように美味しい食べ物を食べて、趣味に勤しみ、好きな人と付き合いを楽しみ、可能なら仕事をして社会に必要とされるようにして生きたい。そうした普通の希望を抱いている人が多数だろう。

 

なぜ安楽死を望む人がいるのか。それは日常的な行動を決めるように、いやむしろ日常的な希望以上に苦痛や病という個人にとって非常に重要なことについて、人に決められるのでなく自ら選んで生きたいという希望の先に安楽死があるからではないのか。

 

安楽死という選択肢があったとしても、可能な限り安楽死でなく緩和ケアを選ぶ患者を増やすことを目指したいと著者は言う。

 

まず安楽死があるわけでなく、より良く生きるための手段としてそれがあるのだとすれば、著者の言う緩和ケアを発展させるということは生きるための手段を増やすということなのかもしれない。

 

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