騎士団長殺し

久しぶりの村上春樹である。この人の本は昔からそうであるが、とにかく貧乏人が出てこない。そして、愛情を感じてるんだかそうでもないんだかよくわからない(なんなら行きずりの)相手とすぐにセックスをする。こんな本を思春期に読んで、こんな人間になりたいと思ったり、こんな男(女)と恋愛したいとか思うと、ろくなことにならない。

 

春樹嫌いの人々が、そんな不思議ちゃんみたいなことばっかり言ったり、気持ちいいんだか、良くないんだか分からないセックスしてるくらいなら、もっと働け、このヤロウというようなことを言う。自分自身も以前は、コイツらなんか癪に触るんだよなと思う気持ちがあった。

 

今回久しぶりに彼の作品を読んで、このあまりにも経済的に恵まれたり運が良い人間たちの設定は、実は形而上学的に物語の要素をそぎ落とすために、余分な物を削った結果なのではないかと思い至った(削ぎ落としたにしては長いが笑)。ポールオースターが「幽霊たち」で、登場人物の名前を記号化したのと同じ種類のことである。経済的な困窮の要素を外すことで、登場人物たちは自分たちそのものの問題に、よりストレートに向き合うことが出来るようになる。これは村上春樹ならではの舞台装置なのである。

 

最近だとよく投資会社なんかが言っている「時間を味方につける」というフレーズが散見される。若い頃はわからなかったが、確かに良いものを生み出すためには、待つことが必要なことは世の中に多い。主役は、ある日突然、妻に離婚を突きつけられる肖像画家である。職業に関わらず待つことは大切なことであるが、なかでもモノを作る仕事の人にとっては、なおさらであろう。

 

さて経済的な困窮を削ぎ落として、時間を味方につけて、ハルキが描いたものはなんなのか。これは「不在という存在」の混沌を、主人公の肖像画家が絵に描くことで腑分けしていく話である。よく考えると腑分けってのはパンチのある言葉である。臓腑を分けるって。

 

漫画の「蜂蜜とクローバー」の中で、はぐみが作品を作ることを、世の中にある美しいものを飲みくだして選り分けて箱にしまっていく作業だと言うようなことを言う場面があるが、種類は同じようなことかなと思う。

 

しかし、はぐみが「存在するもの」を箱に閉まっていくために作品を作るのに対して、本作の主役と登場人物たちは、「不在という存在」を腑分けしていく。

 

「私たちは自分たちが手にしているものではなく、またこれから手にしようとしているものでもなく、むしろ失ってきたもの、今は手にしていないものによって前に動かされているのだ。」

 

いなくなってしまった人たち、手に入るかどうか不確かなものたちは、経済的にいくら満たされていても、彼らに安寧をもたらさない。「不在の存在」に近づくために面倒に巻き込まれていく彼ら。

 

ないものねだりならぬ、ないもの探しである。そりゃ見つからないわ、だってないんだもん。だからきっとこの物語を飲み進めても目の覚めるような回答は出ない。彼の本がずっと以前からそうであるのと同じである。村上春樹はないものを探す人なのだ。

 

しかし彼の本はよく海外で翻訳されて人気と聞くが、固有名詞とか独特の言い回しとかどう訳されているんだろう。今回の「免色」とか秀逸な名前であると思うが、固有名詞でありながら、別の意味を包含できる名前ってどうやって訳すことが出来るのだろう。

 

CDに傷かなにかがあって、ずっと同じ曲ばかりが流れてしまうような小説であり作家だと思っている。しかし数々の不在を表現するために村上春樹が描く世界は、スリルとサスペンスに溢れ、探し物をする人々は知らず知らず躍動していく。私が同じ曲だと思っているものは、実は同じ曲ではないのだろう。同じであれば、こんなに何度も、何年にも渡って同じ作家の本を楽しむことなど出来ないもの。

 

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