ツルゲーネフおじさんによる失われてしまったものを愛おしむ文学である。ロシア文学と言えばドストエフスキーとトルストイ、チェーホフとツルゲーネフくらいしか知らない。しかもメンツの何人かはロシアで間違えないよね⁉︎と調べるくらいのあっさい知識である。
しかしドストエフスキー、トルストイとチェーホフ、今回のツルゲーネフはなんとも両極端だなという印象である。
本作「初恋」やチェーホフの「桜の園」などは感傷的で、過ぎ去ってしまった青春の輝きやらキラキラしたものを眩くどこか哀しみを持って描くのに、ドストエフスキー先生とトルストイ先生は、社会とは⁉︎人間とは⁉︎生きるとは⁉︎⁉︎みたいな難解な問いをグリグリグリグリ長編で書く人のイメージである。
とはいえツルゲーネフも有名な著作の「猟師人日記」や「父と子」などは小難しそうなのでやはりお国柄なのかなと思ったり。まあ書いてるのは全員ヒゲモジャおじさんだけどね。
何かで小川洋子がツルゲーネフのは「初恋」を絵本で訳しているらしいというのを読んで、それを読むために本家と合わせて読んでみたのである。
なくしたものをクヨクヨ考えるのは小説の中でもあまり好きでないので主人公のことをしょうがない兄ちゃんだな、もっと勉強とかしろよと思っていたのだが、あとがきで主人公と主人公の父親はツルゲーネフ自身を投影したものらしいと知って、それならと読む目が変わったのである。
ハンサムで好色で冷酷な中年男性と、初恋をずっと忘れられない純粋な青年が同じ人物の中に共存するのなら面白い。男性は自己の中の更新されない何かをずっと抱えて生きているのだな。そういえば女の恋愛は上書き保存、男の恋愛はフォルダ保存なんて言うけどお国柄や時代が違ってもその辺は一緒なのだろうか。
考えてみると男性の描く悲恋物に出てくる美しくて小悪魔的で人を翻弄するけれど実は一途な女性というのは本当にこの世に存在するのだろうかと少し疑問に思うのである。本作の女性もそんな女性であるが、実は若いとき好きだった男のことなんて上書き保存の果てに忘れ去って現在を生きていたのではないかと思ったりもするのである。
小川洋子の翻訳絵本はそんな男の憧れの綺麗な上澄みを抽出したような本だった。