なんだこの薄氷を踏むような緊張感の母娘の会話は。一歩間違えると奈落に落ちてしまいそうだ。決して喧嘩をしているわけではないし、難しい話をしているわけでもないのに。
主人公ルーシー・バートンは盲腸で入院するが、予想外に長引く入院生活で夫や娘に会えず辛い思いをしていた。そんなある日、田舎に住む疎遠だった母親が見舞いに訪れる。5日間、他愛もない会話を交わす母娘。この訪問はルーシーに強い印象を残す。
本当に他愛もない会話なのだ。しかし、なんとなく、なんとなく嫌な感じ。近所のあの子は誰それと結婚したが別れたよ。あの子は結婚した途端に夫を徴兵に取られて、戻ってきた夫は変わってしまっていたよ。母親は人の不幸を笑うわけではないけれど、わざと不幸な結婚の話を取り上げるかのように話す。
ルーシーは幼い頃、父母や兄姉とともに田舎で暮らしていた。アングロサクソンの家系であることを誇る父母だが、生活は貧しく厳しいものであった。勉強が出来たルーシーは進学して故郷を脱出する。配偶者を得て子どもに恵まれ、ニューヨークで比較的豊かな生活を送るルーシーだが、どこかで常に寂しさを抱えている。
幼い頃抱えていた漠然とした不安感を思い出した。「私はこれから今は手にしていない多くを手にするだろう。そして、手にしたものをいつか必ず失っていくだろう。」あの不安感はなにか名前のつく病だったのか。それとも、幼いことが理由の情緒不安定なのだろうかと思っていた。
本作を読んでなんとなくわかった。愛すべきものを愛せない。愛されたいのに愛されない。自分を手に入れるということは、他の何かを手に入れられないことを実感することでもあるのだ。
入院と時期を同じくして、ルーシーは作家として生きることを選ぶ。それは彼女から配偶者と娘と暮らす生活を奪い、それなりの経済力と新しい夫を与えた。
なぜ、ずっと疎遠だった母親は、予告もなく見舞いにきたのか。母親はそれまでルーシーのことを会わなくてもわかってきたが、最近わからなくなったというようなことを言う。父母の結婚や家庭は貧困と時代背景により、幸せなものではなかった。しかし、そこから抜け出す術もなかった。
母親は自分の世界から決定的に離れていく娘を、無意識に今までの世界に引き止めるような話をしたのではないか。そしてそれは叶わないことを理解し帰っていく。見舞いのシーンは、母と娘が互いを別の人間だと認識する別れのシーンなのだ。
ルーシーは母のことを愛しているが、母のようにはなりたくないと思っている。母に自分を手放しで愛してほしいと切望するが、母が直接的にそれを表現することはないことも知っている。孤独を感じながらも、自分がそのようにしか生きられないことを理解しているのだ。
ありきたりな言い方をしてしまえば、アダルトチルドレンだったルーシーが、孤独を代償に経済的な成功を手に入れる人生を描いた物語。しかし散文的に短い文節で語られる物語は美しく、時系列を行ったり来たりする構成は客観的に自らを見つめること覚悟した強い人間のそれであるとも言える。
白人貧困家庭の事情、HIVの影響もあり性的マイノリティーに厳しかった世情、第二次世界大戦の傷跡とベトナム戦争の生傷。ピュリッツァー賞受賞作家の描く女性の人生は、傷つき不完全ながらも自分であることから目をそらさずに生きていくことの輝きがある。
作中の文章が印象的だった。「人生は進む。進まなくなるまで進む」
余談だがエドワード・ホッパーみたいだなと思った装丁の絵は、日本人の装丁画家のものだった。