考えてみれば当たり前のことではあるが、戯曲というのは人の会話だけで物語を進行するので、読み物として読むとどいつもこいつも、まあよく喋る。みーんな俺が俺がいやいや私がってのばっかりでキャラクターの見分けがつかない。
会話で全てを表現するというのは情緒や余韻からは遠く、嵐に巻き込まれてグルグルぶん回されるようである。貧弱な自分の世界史知識とみんながワーワー言ってる物語のせいでアタマが散らかる!!
鎌倉殿の小栗旬がとても素晴らしかったので彼をもっと観られるところはないのかと思っていたら、吉田鋼太郎が後を継いだ蜷川幸雄のシェイクスピアシリーズの「ジョン王」の上演があると知ったので観にいくことにした。
最近「推しは推せるときに推せ」という有名な言葉は誠に真理であるなと実感している。この人、この物、この出来事、気になると思ったらさっさと調べたほうがいいし、可能であれば実物を見に行ったほうがいい。対象がいつまでも存在してくれて見にいけるとは限らないし、自分もいつまでも元気で対象を楽しめるかどうかはわからないからね。
シェイスクピアおじさん有名作が多すぎて、大して観劇をしたことがない私でも、引用された文章や漫画やアニメやその他諸々、目にする耳にする機会が多すぎる。1500年代に生まれた人の作品がまだ楽しめるってすごいがすぎるなと改めて感心している。
ところで彼が生まれた1560年くらいに日本は何してたのかなと思ったら桶狭間の戦いくらいであった。それは!それで!非常に大事な時期ですね!!世界も日本もすごい戦ってたんですねと頭の悪い小学生のような感想を抱いたところで、観劇の予習としての「ジョン王」である。
シェイクスピアの作品の中ではそれほど有名な作品ではないようで、Wikipediaには現代ではあまり人気がないとまで言われている。皆がワーワー言っていると雑な感想を述べたが、そのワーワー言って戦ったりしているスペクタクルがヴィクトリア朝時代は人気だったそうである。
だとすると今回の演劇のジョン王はこの作品が流行った当時と真逆のことを言いたかったように見える。
ここからは芝居のネタバレなので鑑賞予定の方は読まずに頂いた方が良い。
今回の演劇は明らかに反戦を意識した内容であるようだ。芝居の最中にボトンボトンと天から降ってくる人や肉を模した物体は戦争で喪われた人間を表現しているのだろうか。私は演者に当たってしまわないだろうかと心配で仕方がなかったが。
王様たちや貴族たちが自分の都合をワーワーまくしたて巻き起こる戦争の中で死んでいくのは一般庶民である。現在のロシアとウクライナの戦争や、アジアでも燻る戦争の火種を憂うものであるのか。
蜷川幸雄の意思を継いだという吉田鋼太郎はこの作品を持って終わりになるシェイクスピアシリーズに並々ならぬ思い入れがあったのだろうかと予備情報で若干気が散る。
いっそ喜劇的であればもう少し腑に落ちたのかもしれないが、あれが欲しいこれはダメだと騒ぎ立てる王や貴族たちは、結局最後には誰も何も手に入れられずにいなくなっていく。
だからアンタたち何がしたかったのさ?1500年代に生まれたスペクタクルを楽しむ目的で書かれた戯曲が、現代で反戦のモチーフとして使われたのだとしたら。
現代の服を着て舞台に上がり中世ヨーロッパの衣装に着替え芝居をして、また現代の服を纏い、猫背で駆け足に走り去っていく小栗旬を見て、なるほど私生児として劇中振り回される彼は「時代の私生児」として傍観者の役割を与えられていたのかもしれないと思った。
作られて500年以上経つ物語は当初とまったく逆の目的を持つことがあるのか。そう思うと大変に興味深い読書と観劇になった。