以前読んだこの本が本屋の書架に並んでいたので手に取ることにした。現在起きている戦争で本の舞台のウクライナに注目が集まっているからなのだろう。
改めて読み直すとキエフやハリコフなど昨今のニュースでよく聞くようになった地名が散見される。こんな形で東欧の地名を覚えることになるとは思わなかった。ソ連崩壊後のウクライナを舞台に描かれる本作。皮肉なことに今回の戦争の報道を経て物語の解像度が上がった。
ウクライナに暮らすヴィクトルは、動物園から譲り受けたペンギンをペットに孤独に暮らす売れない小説家。まだ生きている人間の「追悼記事」を書く仕事を始め生活は安定していくが、やがて追悼記事に書かれた人物たちは次々に死んでゆき、ヴィクトルの周囲にも不穏な気配が漂うようになる。
前回は遠く離れた国のこととして、わからないことはわからないままにぼんやりと雰囲気を味わって読んでいた。それはそれで不穏さとユニークさが混在しつつ終盤の盛り上げ方に切れ味があってとても面白かったのだが、今回は作中の出来事は何を刺していたのかを考えながら読んでみることにした。
結局「追悼記事」とは何だったのか。ソ連崩壊後ということで東側と西側勢力の押し引きがあって、見せしめとして行われる粛清を指しているのかとぼんやり思っていたのだが再読してみて多分違うとわかった。これはそこまで壮大な話でなく、一国の中で独立後の混乱期に1市民が巻き込まれ翻弄され、いつのまにか加担していく話なのだろう。
巨大な共同体から離れたことで変わるウクライナ国内の勢力図は一般人の中でも誰が味方で誰が敵なのかをわからなくした。自分は何をしているのかもわからないまま何かに巻き込まれていくヴィクトル。
いつも比較的、受動的に事態に巻き込まれていく主人公の様子はどことなく村上春樹のそれを思い起こさせる。巻き込まれ型かと思いきや時々思い切った行動に出るところも春樹味が深い。だからって現住建造物等放火はやめてくださいよ。
そしてこの物語の肝は何はともあれペンギンである。そのユーモラスでファンシーな存在が実は見せしめという恐怖のシンボルであったというところに歪な不穏さが発生する。
物語にはペンギンのミーシャと人間のミーシャが登場する。名前に意味はあるのだろうかと調べてみると、ロシア人の男性名ミハエルの愛称であり、モスクワオリンピックのクマのマスコットの名前でもあった。可愛らしいものや親しみやすさの象徴であろうか。可愛らしさや親しみやすさの象徴が死神のように死を連れてくるのだ。そりゃ不穏である。
現在のところニュースを見る限りウクライナは徹底抗戦の構えである。今起きていることはウクライナがこの頃の時代に戻るということなのだろうか。時代を逆行させるのを強く拒むためにウクライナは戦っているのだろうか。
遠い国で起こる出来事に私に出来ることは何もない。時々刻々と変わる状況を追うことすら、ナーバスな感情の波に飲み込まれないためにあまりしないようにしている始末である。それはそれで生きるための手管として身につけてきたものなので間違えではないとは思うが作中で心に残った箇所があった。
「しばしば生が人を死に向かわせることがありますが、親しい者の死は人を生に向かわせます。つまりもっと生きよう、何があろうと生きていこう、と思わせるものです……。この世のすべてが血管でひとつにつながっているのです。中略。それというのも、全体の中で生きている部分のほうが、つねに死んだ部分より多いからです。」
逃げようとしても逃げられない状況。しかし歴史を振り返り何とかして後戻りしないように人間性を大切に生きていきたいと思う気持ちは誰も否定することなどできない。この非人間的な状況が一刻も早く終わるのを祈るばかりである。