勝手な印象であるが犬を男性性、猫に女性性を象徴をするイメージを持っている。
本書から強い男性性に満ちた印象を受ける。精力が強いことを生命力の証しとし、生殖を生きることそのものとみなす。家畜動物の繁殖、人間が家族を増やし子孫を継いでいくための生殖。
生々しい描写も少なくないが淫猥さを感じないのは、それが生き物が生きること自体を表しているからだ。そこには厳かな敬意があり、自分の持っている価値観と違っても、おいそれと軽蔑したりは出来ない気持ちになる。
これまた勝手な印象だが、猫を愛する人々は気まぐれでわがままな恋人に対してするように猫を愛し、対して犬を愛する人々は父母や兄姉弟妹のように、常に生活を共にするものに対してするように犬を愛しているように思う。
誤解を恐れず言い切るなら、猫は感情であり、犬は生活である。タイトルに犬の名を持つこの本は、人の生活を、人生を描いている。
本書の中で犬は、生死両方の使者の象徴として描かれる。幼い子供に寄り添って守る存在であり、年老いて命の火が消えそうな人間に最後まで寄り添うのは人間でなく犬であったりする。
そして「鳥が太陽を運んでくるように」の章では、ゲール語でクーモールグラス(大きな灰色の犬)と呼ばれる犬が、何世代にも渡って祟っているかのように一族の不幸の象徴として存在する。
人が生物として、社会的な存在として、生まれながらに与えられた役割は、繁殖すること、働くことであるとする見方は現代の多様化された世界においても主流であるだろう。
しかしながらこの役割は実行する意思があったとしても、必ずしも思い通りにならない不確かなものである。この物語の登場人物たちは不確かなものの中で確かな生を生きている。
この物語は主にカナダのケープ・ブレトン島に住むスコットランド移民の人々を描いている。
1746年の「カローデンの闘い」において連合国に反旗を翻したチャールズ王子とともに立ち上がったハイランド(スコットランド北部)の戦士たち(ハイランダー)は勇猛果敢に闘うが敗北し、徹底的に追跡、虐殺され、反乱に加わった人々は追放された。
その後、没収した土地を領地にした首長たちは羊毛の需要の増大に目をつけ、小作人や住人たちを追い出しハイランドの広大な丘陵を牧羊地にした。
このスコットランドのハイランドで行われた住民の強制的な立ち退き、章のタイトルにもなっている「クリアランス」は18世紀の半ばから19世紀の初めまで続いた。
産業革命の波を受け、経済の発達はさらにハイランドの人々を故郷から追い出した。カナダ1の生産量をほこる炭坑や豊かな漁場や森林で働くことを求めて、ケープ・ブレトン島にはそんなスコットランド人たちが新天地を求めて移り住んだのである。
故郷を追われることを余儀なくされることは、自分たちの文化に対する愛着を増すだろうか。移り住んだ土地を今度こそ終の住処にしようと、執着を強めるだろうか。そう考えてしまうほど本書のブレトン島の描写は美しく荘厳であり、登場人物たちの土地への執着や自分たちの文化への愛は強い。
常に厳しい自然にさらされ、生きていくのに容易な土地では決してないのだ。その中で家畜を育て、自然から恵を受け、家族を増やし生きていくことを目指した人々の生きる様に、深い森の中で木の陰からさす陽の光のように確かな温もりを感じるのである。