生物と無生物のあいだ

   科学者とは思えない詩的で美しい文章書く人だ。とはいえ、科学的な部分はおおむね、わからなかったので(笑)、印象に残ってたところについて少々。

 本書において、まず生命とは「自己複製するシステム」であると述べられている。複製とは一揃いのDNAがコピーによって二倍になること。

 

自分で倍々に大きくなっていけないものは生き物ではないということなのか。そういった前提に立って話が進むので、自然と話はDNAの成り立ちと、それにまつわる科学者たちの悲喜こもごもが語られることになる。

 

   DNAが遺伝情報を運ぶ最も重要な分子であることを証明したオズワルド・エイブリーの生涯を賭した研究。慎重で地味で堅実なその仕事には静かな感動を覚える。

 

ロザリンド・フランクリンの曖昧さや妥協を許さない、完璧な帰納的アプローチによって構築された研究は、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウイルキンズのDNAラセン構造の解明に対して大きな貢献をしたが、その功績が評価される前に彼女は病でこの世を去った。

 

   ウイルスは生物なのだろうか。ウイルスは栄養を摂取しないし、呼吸もしない。二酸化炭素を出すこともしないし、老廃物を排泄することもない。その形状は幾何学的な美しさを持ち、同じ種類のウイルスはまったく同じ形をして大小や個性がない。

 

ウイルスは他の細胞に寄生して、宿主はそれを自分の一部だと勘違いしてせっせとウイルスの部材を作り出す。生命を「自己複製する」ものだと定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体であるが、著者はあえてウイルスを生命とは定義しないという。

 

   生命を構成している原子は絶えず無秩序で不規則な動きをする。平均的な動きをする原子と例外的な動きをする原子は、平方根の法則によって分母となる原子の数が大きくなるほど、例外的な動きをする原子の割合が減り生命として安定する。生命は安定するために原子に対してこれほど大きいのだという。

 

少人数の会社に仕事しない人がいるとダメージが大きいけど、大人数の会社に仕事しない人がいるのは、まあなんとかなるみたいな話かしら。働きアリの法則ったってあんまり数が少ないと法則が働きようもないもんね。

 

   ヒトの細胞は生まれてから死ぬまで入れ替わり続ける。常に動いて流れの中にある状態そのものが生命の平衡をもたらすのだと著者は述べる。

 

生命は機械ではない。遺伝子を人為的に欠損させたマウスがどのような生き物になるかの実験は驚くべき結果を導いた。遺伝子を人為的に欠損させ作られたノックアウトマウスは成長しても正常そのものだったのだ。

 

   生命のジグソーパズルは、それまで作り出されていたピースとの間に形の相補性に基づいた相互作用を持ち、常に離合と集散を繰り返しネットワークを広げて動的に平衡状態を作り出す。作り出されるはずのピースが欠落しても、できるだけその欠落を埋めるように平衡点を移動し調節を行おうとする。

 

あれだな、お母さんのよく言う、あるもん食べときなさい!ってやつだな。折り合いをつけて生き物として大きくなっていくと。

 

   しかしながらこの実験では分子の部分的な欠落や局所的な改変の方が、分子全体の欠落よりも生命に大きな影響を与えることも証明される。ピースの部分的な欠落は破壊的なダメージをもたらす。むしろ最初からピース全体がない方がましなのだ。

 

生命は時間を経て、徐々に形作られていく。あらかじめないものに対しては、それを補うような作りに変化していけるが、突然追加された要素や取り上げられたものに即座に対応することは出来ない。それが生命が機械とは違うところなのだ。

 

   エピローグのアゲハの羽化の文章に魅せられた。上質な詩を読むような美しさを感じる。科学者のリアリティに基づいたロマンティシズムが好きなのだ。生物学者とは、生命のたゆまずうまない流れに魅せられてしまった人々なのかもしれない。

 

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