グレート・ギャツビー

キザな言い方をすれば、これは富という太陽に魅せられたイカロスの話なのだ。

先日、グレート・ギャツビーを雑に引き合いに出したので、フィッツジェラルドか村上春樹に怒られる(笑)と思い再読。ほとんど内容覚えてなかったので、こんなに喜劇、悲劇、サスペンスのあふれる面白い小説だったかと驚いた。

主人公(語り部)のニックは大学卒業後、証券会社で働くことになり引っ越しをする。家の隣の豪邸に住んでいたジェイ・ギャツビーの家では、夜な夜な有名人を招き、贅を尽くした、豪華なパーティが行われていた。

いけすかない金持ちがたくさん出てくる。コイツらなんでこんなに金持ちなんだと思って調べたら1920年代のアメリカ。第一次世界大戦が終わって、狂騒の20年代と言われてた頃の話なのである。そういえば作中でギャツビーが戦争に参加し、立身するところは重要なターニングポイントだ。

戦時経済から平時の経済に切り替わり、戦後処理に追われる欧州を尻目に、米国がエライこと景気が良かった頃。まあ、米国は今も景気いいですけどね。

なんだ、それなら自分が引き合いに出したあの作品と、本当にあまり舞台となった時期は離れていないんじゃないかと納得。

しかし、作中で出てくる、いけすかない方の金持ちは、そういった急速な経済発展の結果富豪になったというよりも、先祖代々って感じで金持ちなんだよな。軍需産業ででも儲けた家系?もしくはどこぞの国の貴族がアメリカに移住した系の金持ちとかかなとか想像しつつ。

その伝統ある富に憧れちゃったばっかりにギャツビーは恋に溺れ、悲劇に見舞われてしまうのだけど。

ギャツビー好きですよ。がむしゃらで。手段はともかく自分で稼いでるし、お金の使い方豪快だし。今まで見たことのなかったキラキラしたものに憧れて何年も待っちゃう純粋なところとか。

肝っ玉母ちゃんみたいな女性と一緒になったらさらに大成功しそうなのに、そういうもんじゃないんだな。人は自分が持ってないものに憧れちゃうように出来てるのか。

時代のイケイケドンドンな雰囲気と絢爛豪華できらびやかな社交界の様子。成功を手にしながらも、どこかでそれに劣等感や嫌悪感をもつ人間が非常に切れ味鋭く描かれ、流石の傑作だ。

癖の強い登場人物たちに好かれ、時に自分も軽薄に富を楽しみながらも、どこか傍観者のようであるニック。主人公のニックは村上春樹の作品に出てくる登場人物を彷彿とさせ、グレート・ギャツビーが大好きだという村上春樹のあの作風はここから来てるのかと腑に落ちる。

フィッツジェラルドはギャツビーとニックに自分を投影して本作を書いたと言われている。その自己観察の目は非常に切れ味鋭い。もはや古典の本作だが、やはり残る作品は残るべくして残っているのだと納得できる読書であった。

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