戦時において歌とは、軍歌として勇ましく士気を上げるためのもの、反戦歌として戦争の悲惨さを訴えるもの、どちらかだろうと漫然と思っていた。
いずれの場合も、各国が自国の立場でその信条や心情を表わすものであろうと思っていた。本書を読んで「リリー・マルレーン」という歌が敵味方問わず歌われ、各国がそれぞれの言語でさまざまなアレンジで歌うときいて、そんなことがある得るのかとひどく意外に感じた。
その歌は戦場の兵士達の間で広まったようだ。過酷な戦場で母国の恋人を思うセンチメンタルな歌だ。歌としては短く単純な甘い悲しいメロディーを何度か繰り返すものである。
恋人にまた逢いたい。もう君のそばには誰か別の人がいるだろうか。愛し合ったあの頃のように、また君のそばには立ちたいんだ。
著者は70年の大阪万博でメディア関係の仕事をしており、特別ゲストとして招かれたマレーネ・ディートリッヒの歌うリリー・マルレーンを初めて聴いた。当時70歳に手が届こうという年齢のディートリッヒに対して、当初、著者は印象が薄かった様子だ。しかし実際に歌を聴いて著者は強く惹きつけられる。
本書では、リリーマルレーンを歌った人としてマレーネ・ディートリッヒ、ララ・アンデルセンの二人が登場する。
ドイツ人であったディートリッヒはアメリカに移住し、伝説的な映画女優となった。そして第二次世界大戦で多くの前線慰問をしていた人でもある。リリー・マルレーンが収録されたLPレコードのジャケットの表紙にはGIスーツを着たディートリッヒが写されている。歌っているのは英語ではなくドイツ語である。
第二次大戦では二つの戦争があったという。戦闘が実際に行われる前線、それから、各国が自国に都合のいいプロパガンダを行うための、宣伝のための戦争である。
ディートリッヒは前線慰問を行いつつ、連合軍にて行われるOSS(戦略司令部)のプロパガンダに協力する形でアメリカの歌をドイツ語で歌ったのだ。当時ドイツ人にとってディートリッヒはスターとして憧れの存在でありながら、祖国を捨てた裏切り者として見られてもいたようだ。
彼女はリリー・マルレーンを歌う時いつも「戦争中、シシリー、イタリア、ドイツ、チェコで、すべての兵士が愛した歌」という語りから歌を始めたという。しかし、祖国の首都ベルリンで歌った時、ディートリッヒはこのせりふを入れなかった。
後に書かれた彼女の随筆集で彼女は言う「私がドイツに注いだたくさんの涙は、もう涸れてしまった。私はその涙の顔を、すべて洗い流した」
一方のララ・アンデルセンは「飾り気のない人間性と、正直な、燃えるような暖かさをもっている」と作中の引用で述べられている。北海に近い北ドイツで生まれたララ・アンデルセンは、19歳で三児の母となった後も音楽家への憧れを捨てられず、リリー・マルレーンのレコードを出すが当初全く売れなかった。
しかし第二次世界大戦の進行に伴いララ・アンデルセンのリリー・マルレーンは前線の兵士達の中で熱狂的な支持を受けることになった。パッとしない歌手だった彼女はある時を境に一気に大スターになったのである。
大ドイツ放送局主催の「ヒット・コンサート」でナチの幹部が揃って座るなか、リリー・マルレーンを歌うララ・アンデルセン。彼女の栄光はここで最高潮を極める。しかしその翌年、ユダヤ人の夫を持つアンデルセンは突然ゲシュタポに逮捕されるのである。
ゲシュタポの追求を辛くも逃れたアンデルセンはなんとか生き残った。多くのドイツ人たちの中に彼女と同じように「運命に翻弄され、格好悪く生き残った」同じドイツ人の心情が流れていることに気がついたと著者は言う。
祖国を離れ長期的な成功を収めたディートリッヒと、ドイツで短期間で一気にスターになり、また一気にその立場を失ったアンデルセン。対立する陣営に利用される存在であった二人のスターが歌った歌が、リリー・マルレーンという感傷的な前線の兵士たちに愛された歌だったということが非常に興味深い。
ドイツ、イタリア、イギリス、フランス、アメリカ、ユーゴスラビア、ハンガリー各国でリリー・マルレーンは愛された。島国根性はびこる国で育ったものとしては、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとならないのが不思議でならないのだ。
なぜこの歌は戦いと共にうたわれるのか?作中で、この歌は人間を死に対して免疫的な心境にさせる、麻薬的な効果があるのかもしれない、と語られる。人間の恐怖や感傷は、強制された政治信条よりも強く、それは時に敵対心に勝るというという人間性の真実を垣間見たような気がする。
歌い手であったアンデルセンは、当初この歌がこれほど売れることを想像もできず、もてはやされた後は一気に迫害を受ける側となる。ディートリッヒは大スターであったにせよ、祖国を屈託無く想うことは許されない身であっただろう。
「歌は戦争とともに動き出し、作曲家を無視し国境をこえて、フランケンシュタインのように、勝手に歩みはじめた。誰も止めることは出来なかった。ヒトラーもチャーチルも、こればかりはできなかった。そして作曲家自身も、またこの歌の犠牲者の一人なのであった。」
人間が生み出した歌というものが、同じく人間が生み出した戦争を超えて存在しうる。それは作り手を必ずしも幸せにするものでなかったとしても、確かにそこに存在するのだ。