この著者はなぜすぐに周知の通りとか、これは常識であるとか言うのだろう。最初は、いや知らねーよ笑、とか別にそれ万人の常識じゃないからね笑、とかツッコミながら読んでいたのである。
しかし、そもそも本当に周知の事実であるならば、それについて語る必要すらないはずで、初心者や門外漢の読者を慮ったものなのかとも思ったが、作中の著者のキャラクター的にそれもピンと来ない。
さては今は常識とされてるけど少し前までは常識ではなかったり、別の考え方の派閥があったり、今後も流動的な可能性を含んだ話であるから、敢えてこんな言い方するんだなと邪推。
というのは半分冗談で著者のラカン論を語る上では、ある前提条件に立たないと理論が成り立たなくなってしまうから、いっそ感じワリィなというほど繰り返しているのではないかと想像。
なんで内容に触れずにこんないらんことを言っているかというと、事前の想像を裏切らず何言ってるか9割方わからなかったからである。
開き直ればいいというものではないとは思うが、割と融通が利かない性格である。融通が利かなくて要領が悪いのを運動量でカバーしようとするところがあって何かに打ち込むと大変疲れる。
考え事や議論をする際に、意味合いと前提条件を共有することで思考の工数は結構削減されるので、この手の何書いてあるんだがわからないが、理論的に組み立てられている文章は実は疲れないので割と好きなのである。
なぜこの本を読もうと思ったのか思い出せないのだが、読んでいて長年疑問だった心療内科と精神科は何が違うのか。神経症、精神病は何が違うのかについて書かれているので、それだったかなと思う。
フロイトは何かというと、それは性的なメタファーであるとか言い出すイメージがあるが、本当にそうだったんすね。この本のテーマであるジャック・ラカンはフロイトへの回帰を主張した人物だったそうである。
神経症と精神病は異なった構造を持つものであり、患者には適した治療を行わないと病状が顕在化してしまうことがあるため、どちらなのかを予備面接でしっかりと見極める必要があると語られる。
仮説、検証、結論が地道に繰り返し繰り返し語られ、フロイトからラカンへの過程などが丁寧に述べられているのだと思う。が、いかんせん前提となる言葉の知識がない、基本となる歴史的な背景を知らないので、この地道なプロセスに途中で飽きた。
文中で述べられる父、母は生物学的なもの?信教的な意味も包含してる?すぐオイディプスとか言い出すしなあ。だとしたら西洋と東洋で神経・精神医学の構造は違うの?
神経症と精神病違うかどうかは、結局学者の人たちの頭の中で整理されて客観的な数値に出せるものではないの?そもそも病気とは病状とはなんなの?自他害があったら病だとしたら、そうでなかったら?妄想しているのは私でなくあなただと証明できる人間はいるの?
わからない。結局何もわかっていないことがわかった。全部読んでもおそらくわからないなと途中で読むのをやめた。良かったら最後まで読んだ人、かいつまんで内容教えてください。