私はすでに死んでいる

難しいのはわかっているのに、この手の本をつい手に取ってしまう。自然科学の分野が、人類の永遠の命題である「自分探し」、「自己とは何か」という、問いへの答えをくれるのではないかと、考えてしまうからだ。

本書はコタール症候群、アルツハイマー病、身体完全同一性障害(BIID)、統合失調症、離人症、自閉症などの病気や体験を具体ケースとし、脳神経科学も用いて、科学的に「私」とは何かをさぐる良書である。

私はすでに死んでいる。そう思っているのは誰?

コタール症候群の患者は、自分が死んでいると思い込んだり、身体の一部や臓器がなくなったとか思い込み、強い罪悪感や非難されているという感覚がある。では、「私はすでに死んでいる」と思っている「私」とは誰なのだろう。コタール症候群の患者は、「客観としての自己」と「主観としての自己」のみきわめがうまくできなくなっていて、混乱が生じているのではないかと述べられる。客観、主観とは「私のものであると感じられるか、そうではないか」だ。

アルツハイマーがナラティブを奪った後、残るものは?

アルツハイマー病は「自分が誰なのか」を奪う病である。自己を構成する重要な要素のひとつはナラティブといい、自分がどういう人間なのかを、他者や自分自身に語るストーリーのことだ。ナラティブは後天的なものであり、人が認知して積み上げていく。アルツハイマー病は、自分に関する新しい知識を獲得すること(ナラティブ・セルフ)ができなくなる。病気の進行とともに、認知する能力が衰え、築きあげたナラティブは切り崩されていく。

しかしながら認知症患者は支離滅裂でも、自分の混乱したナラティブを経験する主体ではあった。「私」が経験した。「私」が思った。「私」が触れた。時系列がおかしくなっても、それらのことが変わることはないようである。であるならば、「自己」の根本はナラティブではなく、主体としての「私」なのではないか。では、「主体としての私」とは誰なのか。

やっと本当の自分になれた。

自分の身体の一部を切ってしまいたくなる人々がいる。身体完全同一性障害(BIID)という病名で、切り取ってしまいたくなる身体の部分(たいていは腕か足)は彼らにとって異質な部分であり、まがいもの、侵入者なのだ。自分の肉体の所有感覚が、実際とずれているのだという。「自分」ではないものが身体にあるという「自己」のまとまりのなさは、この病の患者を混乱させ、ついにはあらゆる手段を用いて、実際に医者に切断をさせたりする。切断手術後の患者は見違えるように明るくなり、「人生で初めて、自分が完全にまとまった存在になれた」と語る。やっと自分が全部、自分のものになったということか。

私を操っているのは誰だ

「手」が動いたとき、自分が動かしたのか、誰か別の人間が動かしたのか。行動が自分のものだと思えなくなることが、統合失調症の背景の一つなのではないかと述べられる。行動しているのが自分だと感じることができなくなるため、自分の心の声を他者の声と感じ、幻聴が起きたりする。統合失調症患者は自分で自分を触り、くすぐることもできるそうだ。「自分がしている」という感覚を持ちづらいため、原因を外部に求めようとして、幻聴や陰謀などにとらわれることになる。決めたのは自分ではないのだから、責任は別の誰かにあるはずだと。

私は私をずっと見ている

知覚、感覚、記憶、感情など精神にたちのぼってくるものを自分のものと思えず、どこか知らないところから自動的に、無関係にやってきたと感じることを離人化という。離人症の症状だ。離人症患者は言う「自分の人生を構成する精神的な部分が、ほぼすべて消えたように感じ、あとに残るのは、自分の何がおかしいのか見つけようとするノンストップの衝動だけ」。脳は起きる事象に対して、実にさまざまな予想をして、人体の危機を避けようとする。その予測にエラーが発生したり、ケースを比較する神経回路に不具合が生じた場合に、感覚に解離が起こり、離人症の起きる原因になっているのではないか。その場合でも「主体としての自己」は健在で、混乱した「私」をすべて見渡し、じっと観察しているのである。

自分に合わせて自分を作る

自閉症の脳は、実際の感覚情報をもとに事前信念を修正する機能能力が欠けているという説が語られる。自閉症者は、たえず新たな驚きにされされて、強いストレスを感じるため、決まった方法を好み、変化を極度に嫌う傾向がある。自分の置かれた環境が不確かな時、自閉症児は定型発達児よりもさらに大きな不安を覚える。びっくりしてばかりいると、消耗が激しいから、そうなる可能性の少ない、見知ったやり方を自ら選ぶということか。性質は違えど、自閉症でない人間だって、自分が嫌なことや疲れることはしたくない。感覚情報を脳が総合し、頑張って原因を予測したもの。それが「私」を作っている。

「私」は何で出来ているのか。「私」は誰なのか。「私」はどうして苦しんいるのか。私は。私は。私は。

「自己」が揺るぎなく存在するという、誤った観念にしがみついていることが、苦しみを生む。「自己」に傾倒すること自体が病理であり、機能不全の源なのではと著者はまとめで語る。重症の病の場合を除いて、私は私で探す必要などないのだと思えたとき、はじめて私は「私」から自由になり、真の「自己」を見つけられるのかもしれない。

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