多くの死に遭遇した若者が、同じ境遇の人間と手を取り合って、生きることの象徴である食べることを通して、死から命からがら逃れる話。
すべての家族がいなくなっても、ともに食事を楽しむことの出来る人が現れた。
喪われたものは、まさかの父親兼母親が現れることで補完される。しかもその人物に自分が去った後のことを語らせることで、大丈夫、生きていくことができるよと裏打ちする。
しかし、それでも、たった一人では無理だったろう。二人でいたから、そして共にごはんを楽しむことが出来たから、死に飲み込まれずに済んだのだ。
主人公が食事の関係する職業に就くのは、生きていることを、生きていけることを確認するためだ。
「喜び」よりも「悦び」という言葉が相応しいように思う。一説によると「喜び」は自分が嬉しいと感じた時に使い、「悦び」は相手を喜ばせた時にも使うという。
なぜ、今、吉本ばなななのかというと、「キッチン」について語りながらビールを飲む会に誘われたからである。何十年も前に読んだものであるのでビタ一文覚えておらず、kindleで安く売っていたからせっかくなので読んでみた。
吉本ばななと村上春樹は私の中でずっと同じ箱の作家であった。それは作品に常に死がつきまとうところと、主人公たちが若干不思議ちゃんたちであったからであるように思う。
世代的には景気のいい世代の作家たちであるはずなのだが、その希死念慮は感受性の強い若い時期にうかつに読むと、飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じる。まあ、若い日こそ、その不安定さに興奮する衝動があるのだが。
不安定な戦後を必死で乗り越えた親達の育てた子供たちが、豊かになった世の中で自らが不安定になり死に誘い込まれる。なんと皮肉なことか。
年齢を重ねるにつれ、いつの頃からか不安定であることを避けるようになった。それに従って吉本ばななや村上春樹とは離れるようになった。
しかし、キッチンには不安定から逃れるための手段が書かれていた。それでも生きていく人間の強さを描いた話であることに気がつけた、この機会をくれた友人に感謝したいと思う。