最近ダーウィン事変という漫画を読んでいて、この漫画幼い頃に読まなくて良かったなと思ったのである。なにせ 「風の谷のナウシカ」を見て人間など滅べばいいのにと思うタイプの子どもだった。今のSDGs全盛の世ならますます面倒なことを言い出しそうである。
子供の頃はそんなアナーキーじみたことを思っていたくせに、大人になったらまったくもって普通の人間になり、今や何にこだわることもなく肉も魚も酒もジャンクフードもモリモリ食べる意識低い系中年である。まあよくある話だ。
誤解を招くといけないので言っておくとダーウィン事変は大変面白い漫画である。SFのような設定は面白く、スピーディーなストーリー展開でページをめくる手が止まらなくなる。米国の大学についての記述にはリアリティがあるし、ヴィーガンの人のメンタリティについてもやっと少しわかった気がする。
可愛い生き物を食べるのは可哀想だからいけないのか、痛覚がある生き物を殺して食べるのは残酷なことだからいけないのか。可愛いかそうでないか、可哀想かそうではないかというこの上なく主観に基づいた観点で物を区別することはできるのか。
植物が痛みを感じていないと証明することはできるのか。もしも人間とは違う神経伝達で痛みを感じていたとしたら、人間の物差しで測ることがそもそも不可能なのではないか。
何とかして美味しいものを食べることを制限されたくないという考えが隠し切れず熱弁をふるってしまうが、ヴィーガンの人のメンタリティはそういうことではないようだ。
植物が痛みを感じるかはともかく、とりあえず動物を屠殺する際には苦痛を感じていることが証明されているわけだから、できることからやっていくために動物食べませんというようなことでもあるらしい。やれることからやっていこうという考え方自体は嫌いではないのだが。
そんな漫画と合うような合わないようなタイミングでたまたま動物農場を読んだ。人間が運営していた農場から人間を追い出した動物たちが、自分たちで農場を営むことにするが、やがて動物たちの中にも支配するものとされるものという階級が生じてという話である。
右と左がとか。資産家階級と労働者階級がとか。支配階級と奴隷階級がというような話の暗喩であり童話の形をとったホラーみたいな読み物であった。動物たちみんなが平等であるために人間を追い出したのに、やっと独立した動物たちはやがて自分たちが最も嫌っていた支配階級の人間と同じことをするようになる。
子供の頃に憧れた理想のままに生きていくことは誰にも出来ないと思うのだが、それでも理想を突き詰められたとして、その先にあるのは果たしてユートピアなのか。もしかしするとそれは楽園の皮を被ったディストピアではないのか。
懸命に生きるほど、当初の理想郷から離れていく生き物たちにそもそも理想郷を目指すことに気がついてしまったことが不幸なのではないかとすら思ってしまう。
だからね、あるんだかないんだかわからないユートピアを目指すんじゃなくて、今あるものに感謝して、ありがたく頂く幸せというのがあると思うんだよと自己弁護をして、今日も私は生き物を食べて生きていくのである。