良本だった。しかし難しかった。主だった登場人物に普通の意味で感情移入できないからだ。しかも普通と逆の意味では共感できるのだ。
未婚で子どもを作っておいて自分は自由なまま生き、妻に自分の実家の商売や家族の面倒を見させる夫。未婚で身籠った夫との子どもを産み育てながら、夫不在で夫の家族の面倒を見て夫の実家の商売を手伝う妻。このような構図なら現代では怒りは湧こうとも時にはある話として理解はできる。
しかしこの本では構図がまったく逆なのである。男女の立場がもし逆になった時、フェミニズムの概念は消滅するのだろうか。
「酷い女に騙された」というフレーズが作中に出てくる。確かに酷い女だし本人もそれを否定しなそうなキャラクターだ。
持ち前の好奇心で妊娠し子どもは産んだものの手元で育てることはなく。家庭を作り産まれた子を育てようと言う子どもの父親の願いに応えることはなく。自らのしたいことをするために都合のいい環境を選び。あまつさえ子どもの父親は彼女の実家の商売を手伝っているなか、彼女は自分以外の妻を迎え家庭を持つことを促すのだ。
いや大変に酷い。それは子ども歪むわと言わざるを得ない。ただそれは彼女が女だったからかだろうか?男性が同じことをしたらどうだろう。
彼女は人々の仕事や住む場所を生み出し学問的にも大きな成果を上げた。限られた自分の子どもだけを育てるよりも、より多くの人間の生きる場所を作ったともいえる。
今の時代に喧嘩を売るような何かを暗喩するような構図である。そして逆になった構図に私がまっすぐに腹を立てることが出来ないならフェミニズムとは一体何なのだろう。
人間の繁殖としての出産と子どもの育成についていえば、産むことは生物学的女性にしかできなくても育てることは男性にも女性にも出来る。しかし人間の出産や育児を繁殖としてしか見なければ、作中の人物のおぞましい妄想を否定できなくなる。
あの妄想は本当に恐ろしかった。
ずっと女性を差別したり迫害したりする人々に対して何と非効率的で非人間的なことをするのだろうと不思議に思っていた。しかし世の中の女性差別主義者は無意識にしろ意識的にしろあの妄想を心のどこかに持っているから非効率で非人間的な行動ができるのかもしれないと腑に落ちた。
本作は中世ヨーロッパを時代背景にしている。この作家はヨーロッパを舞台に違和感なく現代の感覚を持ち込んだ小説を書くのが非常に巧い。以前読んだ作品も第二次世界大戦下のドイツで生きる人々を史実を交えながら感傷的にならず綺麗事だけでなく描いたものでたいへん良い本だと思っていた。しかし日本人が戦時下のナチス党員の家族を描くとは、なかなかに攻めた本なのではとも思った。
非常に良い本を書く作家さんなのになぜいまひとつメジャーにならないのか理解に苦しんでいたが、現代のシビアでセンシティブなテーマに寄りすぎているからではないかと今回感じた。感性が非常に進んでいる。そして現実的な被害者や加害者が多すぎて、皆がおいそれと触れないところを緻密に意識的にたどる物語を紡ぐ人なのだ。
今作のテーマをフェミニズムと子孫繁栄のための繁殖であったと仮定すると非常にセンシティブである。立ち位置によって真逆で、しかも非常に感情的な意見が生まれうる。相手を肯定することが自らを否定することになる。自分を肯定することが相手を否定することになる。だととしたら人間は冷静に意見を述べることが出来るだろうか。
作中の彼女は人を利用し、人に甘え、人を否定せず、しかし自らを通す。案外ここいらへんが正解なのではないだろうか。
酷い酷いと言ったものの作中の彼女のしれっとした風合いや性格は嫌いではない。いやむしろ好きかもしれない。彼女はなかなか図々しく強かだが人を否定はしない。愚かな息子に対しても愚かだなとは言うものの存在を否定するようなことはない。研究を自らの名前で発表できなくても何も気にならないようだ。
こんな女性はあり得ない。こんな男性がいるはずがない。そういった既成概念から離れて人間は自由に生きることができるだろうか。「あなたはどう思う?」と問いかけられているような気がした.