主人公のすることを読んでいると、自分の若い頃の知ったかぶりや、格好つけや、自意識過剰を思い出して、恥ずかしくて目を覆いたくなるのだ。北村薫の「円紫さんと私」シリーズ2作目。
ちょっと格好いいと思った初対面の男性に、ほぼ無理を言って借りた本が、ロシア文学のソログーブ『小悪魔』で謳い文句が「無気力と憂鬱、グロテスクとエロチシズム」(もちろん私は読んだことはない)。
英文学部志望の同級生が、オルダス・ハックスレーを知らなくてびっくりしたとか言っちゃう。〈しかし、総ての小説が大志を語るとき、小説はもう滅びているだろう〉とかも言っちゃう。しかも男性の名前を間違えてる。あぁ、もうやめてあげて、読んでる方がつらい。
「自分に対する自信のなさの現れなのだろうが、こういう時には十知っていたら十知っていますと言いたくなってしまうのだ」。
とてもよくわかる。若いころは知らないことを知らない、わからないものとわからないというのは恐ろしかった。だから少しでも知ってることは、最大限にひろげて話し、人に評価してほしいのだ。
主人公は若さの塊だ。主人公の私と噺家の春桜亭円紫師匠が、日常の謎を解いていくシリーズ2作目。本作で「私」は若さゆえの無意識の悪意を知ったり、今までは自分と同じだと思っていた友人が、いつのまにか自分とは少し違う道を歩いていることに気づいたり、家族なのにずっと見えなかった姉妹の本当の心などに気づく。
円紫さんの作中のセリフで「内に何かを秘めない人はいません。何をどれぐらい表にし裏にするかは人によって違います。中略、ある意味では、その割合こそが、動かしようのないその人らしさを作るのでしょう」というのがある。
以下ネタバレとなります。未読の方はご注意ください。
「六月の花嫁」の中で「私」の友人は、恋人ができたことを隠すためにトリックを用いて、ある意味で「私」を利用するようなことをする。友人は、眠ったふりをした「私」に気づかれないように「ごめんね」とつぶやく。今までのなんでも話せる友人だった関係から、彼女は秘密を持つことで一つ大人になったのだ。
「夜の蝉」の中では、いつも近寄りがたいほどの美人でお洒落でよくモテる「私」の姉が、その凛とした見た目の陰で、人には言えず恋人の裏切りに苦しんでいたことを知る。
幼いころから、「姉」は「妹」に親を取られてしまうと恐怖心を、「妹」は「姉」には何をやっても叶わないという劣等感を無意識に持って育つ。
しかし、あるきっかけで「姉」は「妹」にやさしくしようと思うようになる。そのために自分が我慢することがあってもいいのだと。
人は見える部分だけで出来ているわけではない。そのことが、暗闇の中でも声を響かせる「夜の蝉」というタイトルで表現されている。今年の夏は蝉の声を、いつもとは違った気持ちで聴けそうだ。