奉教人の死

切支丹物というジャンルがあるのか。またもや、内容をろくに確認しないで読み始めて気がついた。芥川龍之介のキリシタンをテーマにした短編集である。

 

芥川がキリシタン物?と違和感を感じながら読み進めるが、そこはやはり素直に信仰の尊さを描いたりなんかはしないのである。

 

「煙草と悪魔」では一休さんかよ!とツッコミを入れつつ、試合に負けて勝負に勝つってこういうことよねと頷き。

 

「さまよえる猶太人」では気づいてしまったからこその不幸を見て、知らないままのほうが幸せなことって世の中にあるよねと思い。

 

「黒衣聖母」での「猿の手」にも似た取引に、やっぱりおっかないモノと取引なんかするもんじゃないなと慄き。

 

「神神の微笑」でオルガンティノ神父が恐れたものは、遠藤周作の「沈黙」でフェレイロ教父が恐れたものと同じ種類のものではなかったかと想像した。

 

結局、切支丹は作品を書くための材料なのである。人の浅はかさ、愚かさ、おかしさ、しぶとさを描くために神様だって使っちゃう。

 

外国のものでも、大仰そうなものでも、なんでも飲み込んで、表現の手段にしたり、神頼んで簡単に信じたり、あっさり捨てたり。

 

「おぎん」の亡き両親は地獄にいるのに自分だけ天国には行けないと棄教するけなげさに紛れるしぶとさと、「おしの」の息子が助かるためならよその神様にだってすがるけど、その神様が腰抜けだと思ったらさっさと捨てて去っていく図々しさが好きだ。

 

芥川先生、最近ではキリスト教どころか仏教も北欧神話も一緒くたに面白がる漫画があるんですよ。脈々と続く日本人の興味本位による作品作りに、なんとも業が深いと思うばかりなのである。

 

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