内田百閒の小説には名前を説明されないものがたくさん出てくる。ある人はそれを恋と呼ぶかもしれない。恐怖と呼ぶかもしれないし、郷愁と呼ぶかもしれない。もしくはなんらかの病と呼ぶかもしれない。
文章から匂いと色と気配がする。
非常に!大変に!とても!好みである。この雰囲気よ。決して性的なことが行われるわけでないのにこの色気よ。逐一細かく説明するなんて野暮なことはせず、かと言ってわかる人にだけわかればいいという高飛車な感じとも違う。
小説ってのは説明するためのものでなく別の世界に行くためのものなのだ。何でもかんでもみなまで説明してもらえると思ってはならない。すべてが明かされなくても、不明瞭な隙間は自分の想像力が埋めるのだ。頭を殴られる思いである。基本設定の解説などなくても小説というものはこれほどの色気を持ち、恐れをはらみ、雰囲気を纏うことができる。
中でも「件」「蜥蜴」「柳検校の小閑」「サラサーテの盤」「とおぼえ」「他生の縁」「桃太郎」が好きだった。
何種類かの動物が出てくる。概して不穏な場面である。牛くらいもある猫、空気枕くらいの芋虫、小さなボール函に入った栗鼠、蜜柑籠に入った白兎。内田百間は動物が好きだっただろうか?怖かったのではないか。非日常へのスイッチは動物のようだ。
掌を返すようでなんだが随筆はそれほど好みではなかった。もしかしたら実際に出会ったら、ヤなジジイだなと思うタイプかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいことだ。知っている人には当たり前のことなのだろうが内田百間は達人であることを思い知った。
余談だが何かを強く推している人の話を読んだり聞いたりするのが好きである。今後の人生で内田百閒しか読んではいけないと言われても構わないというほど内田百閒好きの小川洋子氏のコメントもまた、この本を楽しんだ理由のひとつであった。