羊と鋼の森

人は自分の仕事を決めるまでに、どれほどの職業と出会うのだろう。

教師や医者など実際に自分が接したことのある職業。服飾デザイナーやゲームクリエイターなど身の回りにある物を作る職業。本で読んだり、TVで見て憧れるスポーツ選手や有名人の職業。親がついていた職業。出会えるのは、そんなものではないだろうか。

実際のところを言えば、明確に望む職業があって、仕事に就ける人間はごく一部だと思うが。

主人公は学生の頃に、偶然ピアノを調律しにきた板鳥の仕事を目にし、強烈に魅せられる。音楽経験も調律師に関する知識もないのに、いきなり弟子にしてほしい志願する。いっそ、マンガのテンプレのような、運命的な出会いだ。

人には自分にだけ見つけられて、自分だけが見つけてもらえる、唯一の職業に憧れる時期がある。

主人公は山の集落で育つ。生活の中に森があり、その景色や音を自分の中に蓄えて成長した。自分には特別な才能はないと思っている。しかし幼い頃に山で培われた辛抱強さ、見聴きした自然の音色や風景は彼の中で確かに息づいている。

ピアノは鍵盤を押すと、フェルトを使ったハンマーが弦を叩き、音を出す。フェルトは羊毛からできていて、良い羊から取れると柔らかい音がするのだそうだ。弦楽器などは、チューニングを奏者が自分で行うイメージがある。ピアニストは、自分でチューニングしない楽器を演奏するのだなと、以前思ったことがあった。なるほど本作を読んでわかった。調律師は奏者や環境、ピアノの特性に合わせて調律するのだな。となると、ピアニストと調律師の関係は、思っていたよりもかなり濃いものなのだろう。

「無欲の皮を被った強欲野郎」と先輩調律師に評される主人公の強さ。無駄の意味がわからないと素直に言える人間性。調律するピアノの持ち主たちとの触れ合いで成長していけるしなやかさ。読んでいて心地が良い。素朴で柔らかな詩を読んでいるようだ。

ピアノの音は色を纏い、薫りをおび、人々を照らしだす。器用でない人。目指す道とは違う道を歩くことになる人。才能を開花させ輝きだす人々。
懸命に生きる限り、音は全てを包んで鳴っていくのだろう。

羊と鋼の森」への1件のフィードバック

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