春が近づいて来たこの季節に読むのに相応しそうなタイトルであるが、内容はむしろ逆説的だ。
おりしも児童虐待のニュースは引きも切らず、見るたびに惨憺たる気持ちになる。読み終わって、飲み下すのにしばらくかかり、気がついた。
本書は、理不尽な児童虐待や暴力にあった人間がどうなるか。どのようにそれを受け入れるのかを、時代劇にスピリチュアルと現代の精神医学的な要素までぶち込んで描かれる物語である。
理不尽な暴力は、どこにでも存在する。主要な登場人物の一人である各務多紀は嫁いだ家で姑から執拗ないじめ(というか暴力)にあい、離縁して実家に戻っている。
北見藩、藩主の北見若狭守重興は病が重篤なため隠居したと言われていたが、じつは心の病のため押し込め(行いの悪い主君が重臣たちにより強制的に監禁されること)にされていた。
重興は幼い頃に心に大きな傷を負っており、そのことが重興の心の中に、いくつかの別の人格を生み出していた。
理不尽な暴力の酷さを描き、かつ現実的になりすぎないためかのように、特殊な能力を持つ忍びの者たちが出てきたりするが、そこは物語的な脚色であり、実はあまり重要でないように思う。
なんというか話が進まないのだ。悪い出来事は、既に大方が過去に起こってしまったことであり、実は現在進行形の悪事は作中にあまり登場しない。
しかし、過去の悪い出来事は、明確に現在の人々に影響を及ぼす。
多岐は婚姻生活を続けられなかった自分にどこかで劣等感を持っている。
心を患っている重興は、まず自分がどんな被害にあったのかを思い出し、受け入れるという辛い行為を必要としている。
重興の忠臣である石野織部は、悪事があった際、気がつけなかった己れを悔やむ。
暴力は直接被害者だけでなく、関係者も傷つける。
爽快で痛快な話にならないのは、これが戦いの物語でなく、浄化のための物語だからだ。この物語に勝者はいない。
ただ痛みを抱えて生き延びた人々が、それぞれ新たな道を見つけられたことは、僅かながらも希望として良いのではないだろうか。