カガミジシ

小さい頃はシートン動物記とファーブル昆虫記と椋鳩十をよく読んでいた気がする。シートンは狼が出てくるのが好きだった気がするのだけど、椋鳩十は何を読んだのか覚えていなかった。

調べてみたら、大造じいさんとガン、孤島の野犬の表紙は見たことがある気がする。羆嵐を人に貸したら、カガミジシを思い出したと言ってお返しに貸してくれた人がいて何十年かぶりの椋鳩十である。

 

この種の本は、動物たちが厳しい自然の中で家族や仲間とともに強く生きる姿を描いたものが多い。その愛情は人間のそれを連想させ、動物たちも自分たちと同じように仲間を大切にしているんだと子ども心に感じ入った。

 

動物たちをむやみに傷つけてはアカンと人間への怒りを募らつつ、動物を殺して食べないと生きていけない人間へのモヤモヤを子育てに忙しい親にぶつけて、そんなこといいからさっさとゴハン食べちゃいな!と叱られ、大人ってズルいとか思うめんどくさい子どもであったような気がする。

 

今読むと、この本は伝説の大いのししと最強の猟師の真剣真っ向勝負であり、その戦いは互いの生きる覚悟をかけたもので、余人に口出しできない見事なものである。

 

猟師や漁師というものに憧れがある。土地を知り、天候を知り、獣や魚の習性を知り、肉体を鍛え、自らの身体と磨き上げられた道具と技術で獲物を追う。格好いいじゃないですか。

 

いのしし狩りの名人である源助じい。狩の知識に優れ、リーダーシップに溢れ、後進を育てることに熱心で、狩猟のパートナーである犬たちに優しくも厳しい。

 

対するカガミジシは3匹の子猪を連れたメス。巨大でとても長く生きて、賢く人間の狩猟の性質を熟知しており、近隣の猟師たちの間で伝説的な存在である。

 

大いのししと猟師たちの戦いはストイックである。何日も寝ずに極寒の山中でいのししを待つ猟師たち。猟師たちは獲物が取れても肉を自分たちで食べることはない。内臓だけを食べて肉は売り物にする。いのししは安全に飢えさせず子どもを育てるために時に何日も藪にこもり、時には子どもを守るために危険をかえりみず人間の前に躍り出る。

 

『奥山に、三万三千三百三十三手

中山に、三万三千三百三十三手

里山に、三万三千三百三十三手

あわせて、九万九千九百九十九手

山の神にささげたてまつる

あげはずしはあるも、うけとりたまえ

アビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカ』

 

文中にある山の神に捧げる文句で、アイヌの人々の狩との向き合い方や獲物の扱い方に共通したものを感じる。猟をして暮らす人々というものはどこか共通した精神性を持つものなのか。

 

動物は人間と似ていてるからすごいのではない。一生懸命生きているのは動物も人間も一緒である。だから尊いのだ。子どもの時分の私に、そのモヤモヤ、大人になったら晴れるから大丈夫だよと言ってやりたい。

 

余談だが、作中の擬音語がなかなかいい味を出している。『藪の中でごいすかごいすか眠るいのしし。』「ごいすかごいすか」どこかで使いたいな。

 

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