ストーカーとの七〇〇日戦争

世の中の職業には、普段あまり接する機会が少ないが、いざお世話になるときにはがっぷり四つに組み合ってお付き合いしなければいけないものがある。警察、弁護士、医療関係者などがそれに当たるだろう。

 

困ったときの神様のように扱われることもある職業であるが、しかし彼らとて給料をもらってその職業に就いている人間なのである。相性の良し悪し、人間性、価値観の違いなどで必ずしも利用する側の意図に沿うような動きをしてくれることばかりではないだろう。

 

しかもこういった職業にお世話になるとき人は精神・肉体的に大きなダメージを受けていることが多い。大きなダメージは視野を狭め、思考を硬直させ、判断力を狂わせる。相互の意思疎通は満足できるものでなくなり、もともとの困った状況はますますの窮地に追い込まれることもあるだろう。

 

この本は著しく困った状況に陥った時に人がどうなるのか。犯罪に巻き込まれた時にどこにどう助けを求めるべきなのか。民事・刑事訴訟というのはどのように進むのかについて知るために有効な本である。

 

ストーカーというものが世の話題に上るようになって何年経つだろう。自分自身はその言葉の発祥とともに歳をとってきた世代である。著者は付き合っていた男性との別れ話がもつれて相手はストーカーになってしまう。恫喝や脅迫、誹謗中傷を繰り返すストーカーに対して著者はどのような心情を持ちどのように戦ったのか。ノンフィクションでここまで被害当事者の心情が語られるものをあまり読んだことがない。

 

当初、著者は混乱している。どうしてあの人(加害者)は話をわかってくれないのだろう。もう嫌な思いはしたくない。でも一度は好きで付き合った人なのだ、告発する前に何か出来ることがあるのではないか。そこまで追い込むのも忍びない。また追い込んだことでさらに恨まれたくない。全て心情的には理解、共感できるものだ。

 

しかし著者の思うように事態は動かない。警察とのやりとりの過程で著者は、中途半端に相手を思い、また逆恨みの恐怖から気弱になって訴えを翻意すれば警察は二度と味方になってくれないのではないだろうかと恐怖を抱く。ゆっくりじっくり話せば相手はわかってくれるのではないかと思いながらも、なかば流されるように被害届を提出する。

 

けれども加害者弁護士どころか自らの雇った弁護士にまで示談を勧められ非常に不本意な内容の示談に応じたにもかかわらず、謝罪した後に逮捕されたことで、加害者の怒りには油が注がれる結果となる。結局示談の内容はなかったかのように、加害者からますます恨まれ、加害者が釈放された後SNS2ちゃんねるを使ったさらなるつきまといや誹謗中傷に晒されることになる。

 

結果的に当初彼女が懸念した通りに逆恨みされ、しかも味方であったはずの警察や検察は不起訴となった事件に積極的に関わろうとしなくなる。孤立無援である。しかも直接的な被害を恐れ転居や仕事の制限を余儀なくされ、彼女のQOL(クオリティーオブライフ)は著しく低下していく。

 

犯罪被害者は「何も悪いことをしていないのに」自らを損なう手段を選ばざるを得なくなる。プライバシーの守られる加害者に対して守られない被害者が話題になる所以である。そしてこの「何も悪いことをしていないのに」というのが曲者である。多少なりとも原因があれば被害を受けても仕方ないという風潮は著者をさらに追い込んでいく。

 

結果的に追い込まれながらのギリギリの精神状態で著者は自分でストーカー専門のカウンセラーを見つけ出し、自腹を使い証拠を集め、それをもとに再び警察に被害届を提出し今度こそ起加害者を起訴することを目指すことになる。

 

しかしここまで自力で事態を立て直せた著者が多数派であるとは思えない。損なわれる経済力、肉体と精神の中で常に適切な手段を選べる人は多くなく、そのままズルズルと身も持ち崩してしまう人もいるだろうことは想像にかたくない。

 

本書のもう一つの重要なテーマは「ストーカーは依存症である」だ。「依存症の中にストーカーという種別がある」とも言えるかもしれない。ゲームやアルコール、薬物依存症が自己の行為に向かうのに対して、ストーカーのそれは他者への執着である。その執着は自らだけでなく他者を大きく損なう。自分一人ならいいだろうということではないが、他者を直接的に巻き込む依存は社会に及ぼす影響も大きい。もっと大きな問題として捉える必要があるのではないだろうか。

 

アルコールや薬物中毒ですら依存症であるから治療が必要だという考え方は世の中の多くで一般的であるとは言い難い中、ストーカーも依存症だから治療の必要があるという考え方に驚く関係者の人々の気持ちも理解できる。まだ治療の設備も日本全国で全く十分とは言えないレベルのものしかない。そして今ある方法が最善であるかどうかは本書を読んでも私にはわからない。

 

人がいつでも朗らかな好ましい人間関係の中で生きていくことができればそれが最善だろう。しかし現実にはそうではないことが非常に多くある。最中に命を落としてしまうことすらあるほどの加害。しかもそれは実体験するまでは想像できないほど身近にあるものなのだ。

 

見たくないものを、初めて見るものを見ないふりをすることで被害者の痛みをなかったことにするようなことはしてはいけないことなのだ。何も出来ないとしても知って理解しようとすることは、もしかして将来身近な人や自分自身を救うきっかけになると信じたい。

 

 

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