善と悪の境が曖昧なのである。
善の体現者として戦っていたつもりが意図せず悪の侵攻を促していたのかもしれない。ビジネスの成功のために経済の効率化を進めたことは貧困を生み出し麻薬汚染を生む温床になっていたかもしれない。強大な力を持ち麻薬ビジネスを掌握することで混沌とした闇の世界に一定の秩序をもたらしたのかもしれない。
善と悪のボーダーはどこにあるのだろうか。
アメリカ人とメキシコ人のハーフであるアート・ケラーを主人公に据えたことが既に象徴的なことなのだろう。双方をまたぎつつ、どちらにもアイデンティティを見つけられなかったアート。
自らの道を自らで切り開き、身につけた愚直な正義感は、同じ時代を生き同様に自らの生き方を模索した結果、カルテルのトップに登りつめたアダンと麻薬戦争を戦うことに昇華される。
前作「カルテル」でアダンを殺し、部下の仇を討ち、一定の勝利を手に入れたかのように思われたアート。しかし実はそれはアダンという規律の王を殺し、新たな混沌の王を呼びさましてしまっただけだった。
正直どの方向に続編を持っていくのかと思っていた本作。明確で圧倒的な敵なき後、訪れたのは混沌だった。象徴的なトップを失い混乱して内部争いを始める麻薬カルテル。
治安は悪化し殺人が日常茶飯事になる。麻薬はより効果の強いものになり中毒者や死者をさらに増やす。何故これほど麻薬が蔓延するのか?
貧しく環境に恵まれなかった人々が一発逆転で成功できる職業が麻薬以外にあるのか。失業してドロップアウトした人々、虐待や暴力を受け心に傷を負った人々を癒すものが麻薬以外にあるのか。
この本をウィンズロウ が書いていたのはトランプが大統領になった時期くらいだろうか。ケラーが(ウィンズロウが?)救いたかった人たちの中に含まれるであろう貧民階級の白人たちは、ケラーが荒唐無稽で無意味だと吐き捨てた「メキシコとの壁」を作ると言った資本家階級のトランプ(作中ではそれを模した人物を)を大統領に選んだのだ。
資本家たちが富を得るために貧困を生み出し、それにより麻薬に依存する人々が増えているのではないのか。ケラーは、そしてウィンズロウは怒る。それに加担しているのかもしれない自分自身にも。
世の中には見るのをためらってしまうものがある。暴力、貧困、依存症。けれど、これらは歴然とこの世にあって人を蝕む。そこから目を背けることは将来の自分や子孫の世界を損なうものになるだろうか。自分さえ良ければというエゴを生むだろうか。
ラストは若干ご都合主義的であるが、この人がノンフィクション作家でなくフィクション作家であることを久し振りに思い出させてくれるものだった。現代アメリカの評論家であり運動家の様相を呈すウィンズロウが、最後にエンターテイメントとしての小説の作家であることを思い出して結ぶような物語の結末に、重心をどちらにとって読んでいいのか一瞬わからなくなった。これはノンフィクションか、非常に巧みなクライムノベルなのか。
悪を暴き、身を呈して愛するものを守る。本来は娯楽としての小説はそれだけで構わないはずなのに、それだけでは済まなくなっている。悪とは誰なのか。自分に悪はないのか。
作者は麻薬戦争を通してこの世の暗部を描き出す。生まれながらに貧困や暴力の世界に身を置かざるをえないもの。戦うために自らその身を堕とすもの。これは彼岸の話ではない。この壮絶極まる戦いの記録は、此岸で自分に何ができるか、自らの倫理観・人間性に対して問いかけるものなのだ。