歩くひとりもの

『中年のひとりものが暮らしていくためには自分を毎日の家事労働にむかってかりたてる個人用の応援歌がいる。』

そういえば北大路公子さんも、面倒だといいながら食事を作るときに、歌を歌っていたな。「作って、食べて、死んでいく〜」みたいな笑

かように、ひとりものにおいては、(やら)ねばならないという義務に迫られることが少ないため、少ないやる気で自分を鼓舞して生活を営む必要性に迫られるのである。

自らもひとりもののはしくれとして、非常によくわかる。

ひとりものは、家庭に所属する人間がそのために用いる時間を、すべて自分で使うのだから、いきおい個人としての自意識が強くなる側面があるように思う。

家族という家庭の共同体は、その単位が複数で構成されるため、意識は共同体をいかに維持するかに向けられるのではないだろうか。

そのために、ひとりものは(ある程度)若いうちはしばしば他人から「なぜ結婚しないの?」という問いかけを受けることになる。

著者がそうであるように、実は『主義によるひとりものでなく習慣によるひとりもの』なのであって、とくに強い主義主張があってひとりものでいるわけではない、という人間はわりといるのではないだろうか。

学生時代に演劇に入れ込みすぎて就職活動をさぼった著者は、なんとか出版業界で編集部員の仕事にありついた。私の中の典型的なインテリ文系男性のイメージだ。

作中にはエリック・ホッファー、サルトル、ウィリアム・モリス、イェーツ、トルストイ、ヴィトゲンシュタイン、ブレヒトなどについて書かれたり、引用されたりしている。

その後は演出家、編集者、評論家として、小野二郎(曰くウィリアム・モリス研究のお化け)、片岡義男、高橋悠治らとともに雑誌を作った。

関係した雑誌の名前が素敵なのだ。「水牛通信」「山猫劇場通信」。知らない人間からすると、内容がさっぱり想像できないが読んでみたい。

そんな著者は『主義でなく習慣によるひとりものは、ひとりで生きるのがあまりこわくないという利点がある』という。

なるほど「咳をしてもひとり」なひとりものは(ひとりひとり言いすぎてクドイが笑)、著者が痛風を捻挫だと思い込み何週間も放置してしまったように痛みに強かったり(鈍感?)、ひとりでふらりと店に入ったり散歩をしたりするのに抵抗のない人間が多く、それなりに楽しくやれる人間が多いかもしれない。

しかし家庭という単位に所属していなくても、同僚や友人、行きつけの店など大なり小なりの関係を築いて生きているからこそ、ひとりでもこわくないのだろうとも思う。

かのトルストイだって思ったらしい。「死ぬときは知らない街や知らない人たちの中で死にたくない!」。

それをアイツはだらしないよな〜みたいに書いていたホッファーだって、自分の名付け子のことを実の父でもないのに、ウチの子がさ〜なんて言っちゃうようなところがあるのである。

著名な文豪や学者ですらそうなのだから、「ひとりものは主義でやっている」など、とうてい言えないと著者は言う。

そんな考えてもどうにもならず、特に何も生産しないことを考えるところがインテリ文系男性だよなぁと思いつつ、結構面白くこの本を読んでしまった私は、決してインテリではないが、生産性のないことを考えるのは嫌いではないひとりものの中年なのである。

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