沈黙

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しかし踏み絵ってのは、独特の陰湿さがある。崇拝してるかどうか確認するために、踏ませるって。

大事な人に足を向けて眠れないとか、足蹴にすることに強い侮蔑を感じる日本人の特性を生かし、最小の工数と犠牲で、精神的に大きなダメージを与えることができるものであるのか。

しかも対象は適当に作るって。陰湿な上に、雑なところが、より性格の悪さを際立たせるというか。

持ち運びしやすいように、工夫してコンパクトに作ってみましたハート、じゃないつつーの。

だからと言って、簀巻きで逆さ吊りにされて、頭に穴を開けられるような、本格的な拷問されても困っちゃうんですけどもね。

いや〜見張りのいびきかと思ったら、逆さ吊りにされた人のうめき声だったくだり、怖かったわ〜。

つい踏み絵にフューチャーしてしまったが、言わずと知れた遠藤周作による、長崎のキリスタン弾圧を描いた傑作である。

ポルトガル人の宣教師アンドレ・バルメイロは、鎖国が進み、キリスタンが迫害されていた日本に向かうことにする。

バルメイロの尊敬する、既に日本に派遣されていたクリストヴァン・フェレイラ教父は、拷問を受け、転んだ(キリスト教を棄教した)と伝えられていたが、バルメイロはそれを信じられないでいた。

意外なほど読みやすい。深刻さを主観と客観の両方で述べることにより、ドラマティックででありながら感情的になり過ぎていないことがひとつの理由だろう。

佐伯朗一によるあとがきで述べられているが、本作は途中でストーリーを語る主体が変わる。主人公バルメイロの主体で物語に引き込み、迫害・拷問の様子を客観で述べることにより、悲劇から少し距離をおいて冷静に読み進みせことができる。

『「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。』

『参ろうや、参ろうや
パライソの寺に参ろうや』

神を信じ、日本で殉教することも厭わず、日本に宣教のためやってきたバルメイロだが、死んでいくのは信徒たちだった。

それでも、祈りを唱えて死んでいく信徒たちを救う神は、いつになっても現れない。

バルメイロは人々を幸せに導くための信教が、彼らを悲劇に向かわせることで、自分の存在意義に疑いを持ち、考えてはならない信教そのものへの疑いをも、自らのなかに見つけてしまう。

フェレイロ教父が言う日本人論に、キリスト教の知識はないながらも、なんとなく納得する。
『日本人は人間と全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない』

外国から来た神様を、時の政治に必要であれば取り入れ、不要になったら切り捨てる。残された信徒たちが信じる手段も、本来のものから、自分たちの生活に根付いたものに、微調整をしながら変えていく。よく言えば柔軟、悪く言えば御都合主義か。

悪魔と呼ばれ、次々と宣教師たちを転ばせる井上筑後守にも、一定の理をみてしまうのだ。もちろん、非人道的な拷問が言語道断なのは言うまでもないのだが。

日本を巡って、新教国のイギリス・オランダ、旧教国エスパニヤ・ポルトガルが、自分たちの都合のいいように話をし、国政を混乱させる。徳川幕府の都合もあり、キリスト教は排斥させられる。

人が作り出し、幸福を求めて信じたもの、そのものが人を悲劇に追いやる。しかし悲劇に追いやる人間の側も、その人間たちの理屈を作り出し、国の安定や幸せを希求してのことであり。

結局、全ては人間の頭の中という架空の世界が原因で起こっているかのように、人々は右往左往し、悲劇が生まれるという、いっそ喜劇的な展開に、人間とはなんなのだろうと考える。

キチジローと司祭に違いはない。バルメイロを裏切りながらも、パードレ、パードレと告悔をするキチジロー。彼の弱さと、それでも神に許されて生きていきたいと願う、ずうずうしさとズルさこそ、人間の本質ではないかと思うのである。

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