羆がヒトを食べまくる恐ろしい小説をよく読んでいるが、実際の羆の主食はもちろんヒトではない。主にドングリだのコクワの実だのヤマブドウだの何百個食べたらそのデカイ身体を維持できるのですか?という小さい山の幸を食べているのである。都合、追いかける羆猟師は山の自然環境に精通する必要がある。
このノンフィクションの著者は子どもの頃から父親の影響で銃を使った狩猟に憧れ、二十歳になったと同時に狩猟免許をとり、その後長く羆を含む動物の猟師になった。世の中にはこんなふうに運命的に自分の生業と巡り合う人がいるのだなと不思議に思う。
作中に著者が一般的な人間社会で何かを学習する場面はほとんどない。しかし彼は若くして多くの世の中の理を知っている。
猟師の世界では年下であろうと経験の長いものには敬意が払われるようである。マニュアルのない狩猟において経験者のやり方を知るということは非常に重要であり、彼らは教えを請うことを対して真摯である。
実際の猟では仕留めるまではひとりの作業であっても、その後の獲物の運搬などには自分以外の手が必要になることがある。狩猟においては人間同士の協力が必須であり、そこには周囲への敬意が常にあるように感じる。
人に対してだけでなく山の環境や天候などの自然そのものや、狩の対象になる羆や鹿などの動物、ともに狩にでることになる犬のフチに対しても敬意は向けられているようだ。フチを飼う際、著者は中途半端な習熟度では犬を飼ってはいけないと自らにある程度の技術が備わるのを待つ。中途半端な技能と犬への教育は互いのためにならないことをわかっていたのだ。
彼の狩猟の様子を読んでいると、まるで緻密で立体的なパズルを見ているようである。山を歩き回りどこに何の木があるのか、その年の山の作物の出来はどうであるか、藪や川・丘陵を把握し、どこに動物の痕跡があるかを予め把握する。狩猟のために育てた犬との協力関係でともに獲物を追う。それらがピタリとはまり、適したタイミングを待つことができたとき獲物を仕留めることができるのだ。
その猟はどこか儀式のようでもある。狩りが成功に終わったときはまずそこで煙草を一服し猟の最中の緊張を解き、死んだ動物と向き合う。とれた獲物に対する敬意を持ち、全身を余すところなく捌き、とれたての内臓を食し、何にもかけてその肉や毛皮などを人里に持って下りる。
猟師や漁師など人の管理の及ばない自然の環境で仕事をする人々の様子を読んでいると、しばしば神がかった話やオカルトチックなエピソードを目にすることがある。ひよわな現代人としてはナニソレすごい怖いと思うわけだが、実際にはその手のエピソードは自然の中ですると危険なことをしないように脅かす意味もあるようだ。
スピリチュアルなのかと思いきや非常に合理的である。作中で綴られる自然の光景が厳しくも美しいのは言うに及ばず、著者の仕事ぶりや優れた狩猟生活というもの自体が美しい。
専門の物書きではない人が、これほど論理的で美しいノンフィクションを書けるのだなと思いながら読んでいたが、連綿と続く自然の流れと生き物たちの命を頂く狩猟というもの自体が論理的で洗練されたており美しいものなのだと読み終わって気がついた。