されど愛しきお妻様

スルースキルは生きていくのに大切という話。この場合のスルースキルとは、煽られた時に受け流すことだけをささない。気に食わないことがあっても、それにいちいち食いついていかない。自分の気持ちを追求しすぎて自らを追い込まない、も含んでいる。

 

以前読んだ著者の「脳が壊れた」はとても興味深かった。40歳代で脳梗塞を患い、命は助かったものの高次脳機能障害が残った著者が、さまざまな自分の症状が発達障害児や生活困窮者の特徴と似ていることに気がつき、障害をもつ生きづらさは、環境によって悪化するのではないかと気づくという内容だった。

 

この本では高次脳機能障害の著者と発達障害の妻との関係が描かれる。

 

読んでいてずっとふに落ちない、もっと言えば気に食わない気持ちを感じていたのだ。彼女の生育環境についての記載が詳細であるのに対して、著者自身のそれの記載があまりなかったのがその1つだ。

 

職場で出会った妻は、単純な反復作業の業務に対しては非常に強い集中力を発揮し、何時間もその仕事をしたりするが、コピーを取るとか買い物に行ってくるなど比較的簡単な仕事を間違えたり、やりもらしたりすることの多い人であった。しかも始業時間までに起きることができず常に遅刻気味、仕事に来てもオリジナルの歌を歌ったりする不可解な行動・言動を繰り返す、いわゆる不思議ちゃんでもある。家庭環境が複雑であった彼女は著者と付き合うことになり、いつのまにか家に転がり込むことになる。そして彼女は圧倒的な片づけられないタイプの人間だった。

 

彼女との共同生活で著者はずっとフォローをし続ける。彼女を叱責しながら。
仕事をして、洗濯をして、掃除をして、食事を作って。俺がいないと君は普通の生活ができないじゃないか。もう少ししっかりしてくれよ。彼は自身を片付けや仕事に対しこだわりが強い、しっかりしたいタイプの人間だと思っているようだし、一面的には確かにそうなのだろう。

 

しかし、それとともに、自分の助けがいる(と彼が感じる)人間が必要な人なのではないかと感じる。人の助けになることに自分の役割を見出しているのでは。逆に言えば、それなしでは自分の存在が不確かなのだろうか。

 

発達障害の妻が幼い頃から親に禁止され、叱られ、もう何もするなと成長の機会を奪われてきたから、現在のパーソナリティになったという著者の主張は腹落ちした。

 

しかし心を病んだ人ばかりと付き合い、いよいよ煮詰まってくると関係を切り捨ててきたという著者が、なぜそういう人ばかりと付き合うのかという疑問は湧かないのだろうか。自らを考察せずにパートナーの生育環境をもとに、相手の性質ばかりを考察するのはフェアじゃないと思うのだ。

 

それにしても、明らかに人の助けがいる人を無意識とは言え選んで交際し、その人を助けるように見せて実は追いこむことで自らの存在確認をするって、ある意味ホラーじゃないだろうか。

 

そして、さらに恐ろしいのは、自分の中に著者のそれと同じ部分を認めることだ。

 普通そんなことしないでしよ?
 どうしてそんな簡単なことができないの?
 考えたらわかるでしょ?
 仕方ないからやっておいてあげるよ、感謝してよね。

 

確かに彼女も たいしたタマなのである。仕事をして家計を助けることはなく、生活は昼夜逆転、食事もろくに取らず、風呂もあまり入らず、掃除洗濯もせず、するのは大量に飼っている猫の世話だけ。彼にネチネチグチグチ言われても得意のスルースキルで聞き流し、結局何もしない(後述でそれは「その依頼の仕方では、彼女にはそれが出来なかった」ということに著者は気がつくのだが)。

 

病前には彼はそんな彼女をスルーできなかった。普通は出来ることでしょ、やる気があればやれるでしょ、どうしてもやらないなら自分がやるよ。でも俺だって疲れるんだよ。どうして俺ばかり。あゝ、やはり気になる。あれもしなければこれもしなければ、ちゃんとしなければ。

 

対して、彼女のスルースキルが興味深かった。彼女は育った環境や生まれ持った発達障害傾向で、ずっと周囲に求められることが出来ないことに苦しんでいた。苦しんでいることに誰も気づかない形で苦しんできた。

 

自らの不自由を気にして、そのことに対する罪悪感や嫌悪感を持ち続けていたら彼女は生きてこれなかった。だから無理に矯正しようとしたり、呆れるような視線を向ける人をスルーするスキルを身につけたのだ。生きていくのが最優先なのである。

 

昔の人は実はスルースキルが高いのではと思うことがある。今よりずっと他人のやり方に口出ししてくる人は多かったはずだ。セクハラ、パワハラ、結びつきの強すぎる地域社会、こうでなければならないと決め付けられる家族関係。どうしてこんな煩わしい人間関係の中で、立派な仕事をしたり、子供を何人も産んだり、親の介護をしたり出来たんだ昔の人、とずっと思っていた。今回思ったのは、昔の人は文句を言う側になったことも、言われる側になったこともあったろうが、それをスルーするスキルを同時に持っていたのではないかということだ。

 

発達障害は先天的に脳の一部の働きに障害があることが原因とされる。生まれつきなものであるならば、必ずしも現代に発達障害傾向の強い人間が多いわけではないだろう。

 

それでも以前は発達障害であることをフューチャーされ、だからアイツはダメだからもう付き合うのをやめようとはならなかった。あの人はそう言う(困った)とこあるよね。文句は言っても、そこはそれとして付き合いをしていくしかなかった。文句を言うだけ言ったら気にしすぎない、言われた方もやってみて無理だったら気にしない。だって生きていくのが最優先だからね。

 

生きていくのが昔よりは容易くなった今は、気に食わないことを追求してしまう。清潔になった現代では、自己免疫に戦う相手がいなくなり、アレルギー物質に交戦的になり、アレルギーの人が増えたとする説があるが、同じ理屈なのではないかと思ったりもする。

 

著者は高次脳機能障害になり、妻の心情が理解できるようになり、ではどうしたら二人で、より良い生活が出来るだろうかと考えるようになる。それはこうするのが普通だから、こうするのが当たり前だからという目的が先にあるのでなく、手段という相手と自分の特徴を基本として行われるものになった。

 

目的があるから人間がいるのではなく、人間がいるから目的が出来るのである。そのことを忘れて目的に振り回されることのないように生きたいと思うのである。

 

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