ギケイキ

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ご多分に漏れず三谷幸喜も大泉洋も大好きなので今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しく鑑賞している。楽しくというにはなかなか中身がヘビーだったりもするのだが、平安・鎌倉時代だから仕方ない。現代から見ればなんと野蛮なと思う場面が多々あるが面白いものは面白いのである。

 

同時期にアニメの平家物語を見た。これもまた素晴らしいものであった。アニメは回数が限られていたから良いが、読み物として平家物語を一から読むのは長いなとズボラな気持ちを抱き、とりあえず家の本棚のあの辺の時代のものを探し、この本を再読することにしたのである。

 

琵琶法師とか「祇園精舎の鐘の声」とかを覚えているのは幼い頃の絵本か何かなのか。元々歴史が大好きと言うわけでもなく勉強熱心でもなかったので、鎌倉殿も毎回新鮮な気持ちで慄いたり興奮したりして見ている。腰を据えて平家物語を読むわけでなく本書を再読して済ませようとする辺り、我ながらものぐさであるなと思う。しかし読み直してみてドラマの裏打ちになったので意味はあった。

 

本書はなんせギケイキであるのでドラマではバッサリ省かれた義経を義経たらしめる背景や武蔵坊弁慶の生い立ちが町田康お得意の口調で描かれる。

 

義経の装束に関する記載がしつこいほど微に入り細を穿つように繊細な美しさを描写するものであるのは、ドラマの中で大泉洋演じる源頼朝の装束が1人だけやけに洗練されているように、坂東の田舎武者とは生まれ育ちが違うのだよということを表している。

 

小池栄子演じる北条政子が源頼朝と邂逅し「雅なお方」とポーツとなってしまうように、源氏の御曹司たちは振る舞いも衣装も地方の一豪族でしかない北条家とは全く違うのである。まあ今回のドラマの義経はワイルド系 戦闘 天才児なところがフューチャーされているので上品さを全面に出しているというわけではないが。

 

小説の中では神社仏閣や信教の立ち位置についても語られる。現代の信じるか信じないかはあなた次第とかいうラフなものではなく、その道の考え方に則って通すべき筋を通さないと後に自分にバチが帰ってくるよという明確なルールである。

 

何かというと神仏を拝みつつ、裏切りと策略を巡らす行動とのギャップにドラマの中の頼朝には正直戸惑いを覚える。しかし、この時代の人にとっては神仏を尊ぶということは現実世界に直接影響を及ぼすと考えられていたのだと説明されれば共感はできなくとも腑には落ちるのである。

 

なんと野蛮なと眉を顰める平安・鎌倉時代の武人とて心に葛藤がないわけではないのだろう。親兄弟を亡くしたり敵方だったとしても女、子どもを手にかけなければならなかった時は、良心の呵責によりむしろ現代人よりも救いを求める気持ちは強かったのではないか。

 

生まれや育ちなど自らではどうにも出来ないことで生き方を左右されるのは、下々の者だけでなく上位のものであっても辛いことであったのかもしれない。

 

これまたドラマではバッサリカットだった武蔵坊弁慶についても、その高貴な生まれと数奇な育ちで大幅に見失っていた自分を義経と出会い見つけ出していく下りが描かれている。ドラマ中、奥州平泉で義経の最期を描く回で「こんなんどうでしょう?」と即席の武装を嬉しげに見せる弁慶に義経が「いーねー!」とヤケにコミカルに返すやりとりにも意味合いが増す。

 

今回ドラマ、アニメ、本と3方向から同じ時代の物語を見ることができたが、同じ時代の物語でも別の方向から見たり深掘りしたりすることで見えるものが増えていく。古から人々に愛されてきた物語というのはこんな味わい方もできてより興味深いものである。

 

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