ヨコハマメリー

真白い衣装に、白粉を塗りたくった白い顔と手足。強くアイメイクを施した目元は、隈どりのように黒い。姿勢は良いが、その背中は長年の路上での生活のためか、大きく曲がっている。

 

メリーさんを実際に見たことはないが、このビジュアルがモチーフになった作品は、いくつか見たことがあるような気がする。山下和美の「不思議な少年」にも、メリーさんをモデルにした話があった。それほど彼女の存在は、創る人々の創作意欲を呼び覚ますものであるのだろう。

 

著者も、あるとき気まぐれにメリーさんの話をしたことから、以前に見たその存在が蘇り、彼女をテーマにした映画を撮ろうと思い立つ。かつて横浜に実際にいた白い衣装、顔、手足の老婆の娼婦『メリーさん』を通じて、横浜の歴史と人々を振り返るドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」は、当時、異例のヒットをしたそうだ。

 

本書は、その監督が製作を振り返り綴った記録である。取材を始めた時点で、メリーさんはもう横浜にいなかった。よって、著者はメリーさんとゆかりのあった人物たちに、話を聞きに回ることにした。

 

戦後、大きく時代が変わっていく中、娼婦であること、その強烈なビジュアルと強い香水の匂いなどが敬遠され、メリーさんは色々な場所で出入り禁止になる。それでも、メリーさんと関わりを持っていた人々は、それぞれに彼女に対して何らかの思い入れがあったようだ。

 

自分の母親を大切に出来なかった罪滅ぼしにメリーさんを大切にするもの。彼女のプライド高い生き方に敬意を表するもの。街のアイコンとしての彼女を愛したもの。メリーさんを通じて人々の人生が切り取られていく。

 

著者の性格は、先日読んだ上野アンダーグラウンドの人と比べると正反対に思える。上野アンダーグラウンドの著者は西郷隆盛も気になるし、彰義隊も気になる。嫁の父ちゃんが、東北から出稼ぎに来たとき食べたラーメンも気になるし、果ては永山則夫だって気になる。風俗だって潜入するからには、実際に体験しないという選択肢なんてない。体裁なんて考えてる暇はない!という感じだった。

 

しかし、この本の著者はいつもどこか迷っている。このテーマで本当に良かったのかしら?取材対象に怒られちゃって落ち込んじゃった。こんなこと書いたら失礼なのじゃないかしら?本書の著者も、必要にかられて風俗に潜入したりしているのだが、これは完全に俺の趣味だな、とか思って罪悪感を抱えてみたり。

 

しかし、彼のこの弱さが、逆に登場人物たちを多弁にしているように思う。迷い、惑い、強引に出来ずにいると、周囲の人間が手を差し伸べたくなるのだろうか。どちらも男性なのだが、ルポライターと映画監督の違いがあるとはいえ、ここまでキャラクターが違うと、非常に興味深い。

 

怒られたり、拒否されたり、投げ出されたり、投げ出しそうになったりしながらも、救いの手に助けられ、なんとか完成された映画の出来はさまざまな人を惹きつけた。

 

メリーさんは過去に関係のあった米国軍人をずっと「待っていた人」であったとする話があるらしい。著者の(結果的とはいえ)人に合わせて好機を待った(待たざるをえなかった)ことは、より深く人々を描き出し、映画に深みを与えた。

 

「横浜のメリーさん」を描くために、彼は非常に適した監督だったのでないだろうか。

 

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