この人のことを知ったのは境遇が先だったか、パンチのある人生相談が先だったか。著者はカメラマンで妻と子のいる30代の男性である。多発性骨髄腫という血液の癌を患って余命宣告をされているそうだ。
それだけで結構大変な境遇でいらっしゃるはずなのだが、著者はさらにnoteというメディアプラットフォームでなかなかにヘビーな人生相談に回答している。
その回答は小気味がよく、相談者を甘やかすだけでもなく突き放すだけでもない。多方面の顔色を窺ってばかりいると出ないような答えや、時によっては相談者の奥にいる被害者(虐待受けてる子供など)を思いやるような視野の広さを見せたりする。
普段大きな声でものを言えない人や、人の不幸を見て何かを得たい人(この人よりはマシだという安心?悪い状況に陥らないための学び?純粋に好奇心?)の心理をつかんでいるのか結構な人気で本も売れているはずだ。
かくいう私も新しい記事がnoteにアップされるとついつい読んでいる。これを読んでいる自分はちょっと悪趣味だよなと思いながら。
癌を患っている著者が世の中のヘビーな方(虐待、依存症、闘病、暴力、生き方)の人生相談に答えているのを読んで、なんで病気の人がわざわざそんな人の負のエネルギーを集めるようなことやってるんだ。周りの人は誰か止めろよと思っていた。
しかしこの本で病気の発覚から、ブログでの病気公表、人の重めの相談に乗ることになるまでの過程がわかって腹落ちした。私には癌患者に対する偏見があるようだ。癌を患ったからといってその人をスポイルし、考えや生き方を取り上げてしまうようなことはしてはならないことなのだ。
著者は病に罹ったことで自分の周囲の人間関係を否が応でも見直す必要に駆られることになる。医学的に証明されていない食べ物や薬やサプリメント、宗教、慣習をゴリ押ししてくる人々。患った原因を彼自身だと鞭打つ人々。彼の周囲(家族)が悪いと責める人々。
まだ悪気があれば関係を断ち切れば良いが、悪気がない思考から出る無神経な発言に対して難しくなっていく人間関係。身内や知人にこそ苦しみを吐き出せなくなっていく癌患者の人々。
仕事上などの必要に駆られて、当初は一人ひとりに癌であることを伝えていた著者は、各個人からのあまりのリアクションの大きさ、重さに対応しきれずブログで病を公表することにした。
すると不思議な現象が起こる。同じように癌を患っている人からの相談はもちろん、人生の深刻な悩みを抱えた人から相談が寄せられるようになったというのだ。
きっと深刻な悩みほど身近では相談がしづらいのだ。アドバイスをもらっても解決など難しいことがほとんどだろう。むしろ解決を望んでいるのではなく、ただ話を聞いて受け入れてほしいだけなのだろうにそれは叶わない。そんな人々が見ず知らずの重病を患っている著者にだからこそ吐き出すことができるという現象はどういう心理なのか。
著者自身は患って以降、善意悪意に関わらず自分に不要だと思う人間関係を整理し、不要なら切り捨てる。本当に必要なことや人のために時間とエネルギーをかけるのだと明言している。そのことは相談者たちに感情的でない、合理的で論理的なひとつの道を示すのかもしれない。
そして著者自身も相談者の話を聞き、自分なりの意見を述べることで自分の果たせる役割を見つける。人間が限られた手段の中で自分の役割を果たしたいと思うのは当たり前のことだ。
しかし、それでも人のする話にはエネルギーがあり、それを浴び続けるとマイナスならマイナスの影響を受ける。著者が自分と家族のために居たい自分でいながら、あまり負荷を受けすぎないでいられればいいなと思う。
2冊続けて読んだ本がコピーライターの書くようなタイトルと洒落た装丁、読みやすい文章でサラサラ読めるものではあったが、やはり内容が内容だけに胸が詰まるような気分になった。次に読む本があのノー天気な人のイスラム飲酒紀行で良かった。