悪人

この本を読む人は誰に感情移入して、誰に自己投影して読むのだろうか。

 

母親に置き去りにされ祖父母に育てられ、今は祖父母の面倒をみている車を愛する青年か。大人しくて自己主張は強くないが、どこかで自分だけを愛してくれる人を強烈に求めている女性か。若さゆえの迂闊さで自分の感情でいっぱいになり、他人と自分を損なう女性か。恵まれた容姿と環境で何不自由ないように見える青年か。理不尽な事件で突然愛する娘の命を奪われ、復讐に暗い執念を燃やす父親か。

 

光代を見ていると「情が深い」「業が深い」というのはこういうことかと思う。一見普通の人がする主張も出来なそうな人柄であるが、一度好きになったら普通は言えないことが言えて、出来ないこともできるようになってしまう。普段表に出さない分、貯めている情動は誰よりも熱い。

 

ある時、ふと思いつき書き込んだ出会い系サイトで、祐一と出会う光代。

 

祐一はピンクの服を好み髪は金髪である。愛車は白いスカイラインGT-R。無口で自己主張の強くない祐一と反比例するような派手な好みである。彼は年老いた祖父母の面倒を見て、きつい仕事を毎日文句も言わず働く自分を受け入れながらも、派手な装いをしてどこかで違う自分になれる方法を探している。そしてそんな自分を愛してくれる人を渇望している。

 

それまでのいくつかの別の出会いを経て(その中に彼らを悲劇へ導くものもあるわけだが)出会った二人はすぐに身体の関係を持ち同じ時間を過ごすことで、お互いの渇望が同じ種類のものであることに気がつき、強く惹かれ合う。なにせ、からっからに渇いて餓えている二人がやっとたどり着いたオアシスなのだ。その水はさぞかし甘かったろう。

 

そんな相手に出会えたことを羨ましく思う気持ちはあるが、前提として無茶苦茶渇かなければならないのだ。それはとても辛いことだ。いつもそれなりにおいしいものが食べられるけれど真の空腹を味わったことのない者。真の空腹を感じて身の存在すら危うくなる経験を持ちながら、その分食べ物のありがたみを誰より知る者。幸せなのは、不幸なのはどちらだろう。

 

自分は本質的には悪人ではないと思いながら生きている人が世の中には多いのではないだろうか。時に嫌な自分や悪い自分を見つけても、そうでない良い自分が本当の自分であるのだから自分は悪人などではないのだ。そう思って生きる人が多いだろうし、そうである方が精神衛生上良いと思う。

 

人はひとりでは悪人になれない。人が人と関係を持ち社会とつながることで、それが正しいとは限らないが善と悪に区切られていく。自分の大切な者が悪人に区切られることを避けるために、自らが悪人になり相対的に大切なものを悪でなくさせるというやり方。それはあまり手持ちの武器のない彼が大切な人を守るための唯一の方法だった。

 

吉田修一と言えば映画化された本作や「怒り」「パークライフ」などが人気なのだと思うが、偶然、氏の作風の中では異端と言われている「国宝」を先に読み、これは噂に違わぬすごい作家だと思いながら、ずっと積んでいた本作をやっと読んだ。

 

罪は罪である。しかしそれをきっかけにすべてを悪だと言うのは果たして正しいことなのか。本作の祐一と「国宝」の主人公の共通点を探すとすれば、彼らが自分の手持ちの武器で精一杯生きようとしたことである。罪を認めることは出来ないが、覚悟のある生き方に敬意くらいは持ってもいいのではないかと思うのである。

 

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