こんな時勢のときにこんな本を読んでいると、まるで暴動を起こしたいみたいじゃないか。電車でこの本を読んでいたら、表紙を見たであろう前に座っていた人が目をむいていた。違うんです!別に一揆を起こそうとか思ってません‼︎と言い訳したかったが、まぁ趣味の飲酒を制限されて暴れたい気持ちがあるのは否定できない。
今の日本で暴動や一揆は起きそうにないなと思っていた。現代の日本人が納得のいかない実情に対して拳を振り上げる図というのがどうも想像できない。しかし世界では現在も暴動や虐殺またはそれに近い状況が起こっている国がいくつもある。何かしらの変化が起こる時、それが暴力によって行われるのでないことは喜ぶべきことだろう。
しかしこの本は「暴力はいけないという感覚が別の暴力に対する無感覚を生み出している」と言う。臭いものに蓋をして見ないふりをしていると新たな暴力に対して鈍感になってしまうということだろうか。新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺という4つの出来事を通じて、近現代の日本の一揆、暴動、虐殺について考察している。
武器を持っていても必ずしも暴力を行使しなかった近世の百姓は仁政イデオロギー(領主には百姓の生業維持を保障する責務があり、そうした「仁政」を施す領主に対して、百姓は年貢をきちんと納めるべきであるという認識)によって縛られつつ庇護されていた。しかし商品経済が発達するのにともない貧富の差は著しくなり仁政イデオロギーは機能不全におちいる。
そんな経済的な苦境に対して勤勉・節倹によって生活を立て直し、家を維持しようとする思想(通俗思想)が生まれる。昔、小学校なんかにあった二宮金次郎(二宮尊徳)さんはこの辺りの思想の人なのだな。しかしこれから大きく羽ばたいていくだろう子どもたちにまず伝えることが「苦しいときは地道に節約と勉強して耐えていこうぜ!」なのはいかがなものか。
我慢は美徳みたいなしみったれたこと言ってないで、もうちょっと景気のいいこと言ってほしい。と考えた人が当時もいたのかどうか。人々の解放願望の表れは、ええじゃないかや世直し一揆につながると言及されている。
暴力装置の集権化が未確立であったがゆえに激烈なものになった新政反対一揆を鎮圧するために、警察や軍による国家の暴力が確立され正当・正統な装置として民衆に認知されるようになる。
そして正式に暴力装置を手にした国家が民衆の背中を押したときに、関東大震災時の朝鮮人虐殺は起きたと本書では語られる。この章の熱量が他の章と違うなと思ったら、この本を作られるきっかけがそこであったからようだ。
『歴史修正主義が行政まで入り込んでいることを痛感せざるを得なかったことが大きい。これまで学界で積み重ねられてきた議論を私より若い世代の人に向けて「書き継ぐ」ことで、こうした動きに抗いたくなった。』
最近、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったという意見が出てきているのは何かで読んだことがある。それに対して近現代日本の歴史の研究者として反論をしたかったということなのだろう。
見聞きするに耐えない自らの国の醜聞は時代とともに風化され曖昧になり、果ては明確な証明もなく改竄されそうになる。それを専門家として積み重ねてきた学問という歴史で否定し証明してみせる。
印象的だった一節があった。
「現象を名指す言葉は、常に現象からずれ続ける。ならば「暴動」という語でひとまず対象化し、その語に含まれるネガティブな意味を、行為者の論理に即して読み替えるのが有効な方法だろう。」
見たいものを見て信じたいものを信じるのは自由である。しかし長く積み重ねてきた研究者の意見を知るためにこの本は非常に意義のあるものだった。