分水嶺

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意識しないようにしていたがここ一年程ずっと腹を立てていた。怒りに任せても何も変わらないとそれを殺して、押し寄せる真偽が定かでない情報と強烈な生活の変化に押し流されている間に心の何かが少し死んだようだ。それは他人との交流の中で育まれる感受性なのか、本を読んで深く考える集中力なのか、本来持たねばならない未知の疫病に対する恐怖感か。

 

結局今になって押し殺しきれなかった怒りに振り回され、わしゃどこの王蟲やというくらい我を忘れて怒って本質を見失いそうになったりしている。原点に立ち返る意味で今こそ読むのにふさわしい本だった。新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の発足から廃止までの約5ヶ月間を振り返るノンフィクションである。

 

専門家会議の副議長(現在の新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長)尾身茂氏、専門家会議座長の脇田隆字氏(分科会会長代理)など多くの専門家や行政官、大臣や知事、自治体の職員などに著者が何度も取材を行い記録をしたものである。著者の感情や感想による記述はほとんどない。

 

人類は現在、強い感染力と重症化の可能性を持つ感染症と世界規模で対峙している。有効と思われるワクチンが驚くべきスピードで開発されたものの全世代に必要分行き渡るにはまだまだ時間がかかるため感染症に抗うには人と接する機会を減らすしかない。とはいえ病に罹らなくても経済活動ができなければ人間は生きていけない。どうバランスを取ればいいのだろうか。

 

最近読んでいるフラジャイルという病理医の漫画に患者に判断を任せる医療について描かれる回があった。セカンドオピニオンの浸透により、選択の重荷を専門家でない素人が背負うことになることの難しさを描いたものだった。

 

インフォームド・ディシジョンとは治療などで考えられるすべての選択肢について、利益と危険性の情報を患者と医療側が共有して、患者が主体的に意思決定を行うという考え方である。他方、パターナリスティックな考え方とは、本人の意思を問わずに医療者が専門家として患者にとっての最良の方法を判断して伝えるものである。

 

感染症対策はインフォームド・ディシジョンに基づいて行われるべきなのかそれともパターナリスティックに行われるべきなのか。しかもこの新型コロナウイルスは専門家たちも市民に説明するべき必要なデータをまだ持っていないのである。インフォームド・ディシジョンに基づいて市民に必要な情報を公表し状況への理解を求めようとする専門家たち。対して危険性を言葉で詳細に表明することに及び腰な官僚組織はパターナリスティックであるように見える。

 

学者や研究者である専門家委員会の人々は「最善を尽くしても間違えることがある」のを前提として、都度都度方針を転換し市民に説明し状況への理解を求める。官僚組織は本質的な性格として無謬性(誤りが含まれていないこと)を背負っているため、危険性を説明する詳細な説明をすることで市民がパニックになることを避けようとする(或いは間違えの責任が自らに降りかかるのを避けようとする?)

 

おそらくどちらか片方ではダメなのだろう。専門家達が一見潔くプロとして格好が良く見えても彼らに行政は出来ない。行政機関は保身ばかり考えているように見えるが、専門家の意見を仰がなければ必要な判断ができない。

 

尾身茂氏の言葉が印象的であった。「真実というのは不安定で複雑なところにあるんです。人の心を考えてください。すべてが神のような人はいないし、すべてが邪でもない」まるで宗教家のような言葉である。

 

官僚組織や政治家、はては専門家同士の中でも意見の相違は存在する。その中で必要なことはしっかり主張するが譲るときは譲る。自分に間違えがないとは思わない。そんなしなやかな姿勢がこの長く厳しい新型コロナウイルス対策において尾身氏がずっとリーダーを務めている所以なのだろう。

 

本を読み終わっても腹の立つことはやはりまだ多い。多いのだが少しだけ気持ちの持っていき場所について考える余裕が出来た。途中経過での振り返りも大切だなと確認した読書であった。

 

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