うつ病九段

うつ病九段
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人は仕事をする上でさまざまな商売道具を持っている。職人の手先の器用さ。営業の人当たりの良さや押し出しの強さ。俳優の美貌。アスリートの身体能力。将棋について言えば、間違えなく商売道具は著しく高度に働く脳だろう。

 

棋士というのは自己研鑽を重ねに重ねてて、直接会話するわけでもないのに脳を使って相手と対話する。それが丸一日続くことは稀でなく、タイトル戦ともなると何日もかけて続くらしい。

 

脳が疲れるたぐいの仕事というものがあるとすれば、自分にとってそれは人と折衝するような仕事である。相手に対応して適切な回答をその場で答え、それに対する相手の反応にさらに対応してその場で答える。長時間こなすと、その後強い疲労感を覚えることがある。

 

仕事の中のひとつとしての折衝ですらかなり疲労するのに、研鑽を積んだ相手に対してマンツーマンで一日中勝つために考え続けるというのはどれほど脳が疲れるものなのか想像もできない。

 

最近、うつ病は育ち方や生まれつきでなく脳の病気であるというニュースを見た。身近でも世の中でもこれほどうつ病について聞く機会が増えたのに、原因や治療について実態をよくはわかっていなかった。

 

当事者の立場から語られるこの本は棋士でない人にも、うつ病というものがどういうものかについて非常に理解しやすく書かれている。

 

主な商売道具が脳である棋士がうつ病を患うというのはどういうことなのか。誰しも、うつ病を患えば非常に辛いものだと思うが、脳を使うことが生きるためのプライドであり糧でもある棋士が患うと、また辛さに別の意味を含んでくるものであるということがよくわかる。

 

著者は3月のライオンの将棋監修をしている人である。西原理恵子の漫画に出てきたりもする。週刊誌に連載をされていたりもしたようなので将棋界の文化人枠、そして普及のために力を使ってきた人なのだろう。

 

うつの症状である決断力・意欲の低下、自信がなくなること、集中力がなくなること、そして何より怖いのは死にたくなることが本人の弁で語られ、うつ的な症状とうつ病の明らかな違いが分かりやすい。著者も最悪期には希死念慮を抱く。

 

精神科医である兄と妻の助けを借りて著者は将棋の仕事を休み治療をすることになる。兄の「鬱は必ず治る」という言葉が印象深い。治療中に頻繁に交わされる兄とのメール「必ず治ります」「必ず安定します」短くも力強いメッセージは治療を続ける著者の足場をひとつずつ固めていくように力強い。

 

将棋が打てなくなって自らの存在価値を見失うような最悪の時期があっても、適切な治療は著者を回復へ促す。生きてさえいれば、休むことができれば、しっかりと治療ができれば、うつ病は治るのだという知識を得られただけでこの本を読む価値がある。

 

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