「人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術(公益財団法人 文楽協会 オフィシャルウェブサイトより)」である。
観劇したことはないのだが、この本を読むにつけ、太夫によって語られるという言葉の美しさ、長い間磨かれてきて研ぎ澄まされた文句の切れ味にウットリしてしまう。
人形遣いが操る人形に、太夫が語り、三味線が情をつける。特に太夫と三味線の絆は余人に伺えないようなものであるらしく、それは長く連れ添う夫婦のようであり、ライバルのようでもあり、非常に嫉妬深いカップルの感もある。
この何かにつけ尋常でない芸事の世界では、豊竹宇壺大夫と三味線の露沢徳兵衛が本当の夫婦であり、徳兵衛と茜の夫婦は戸籍上の夫婦でありながら、二号さんの家庭のようだと思いながら読んでいた。最近では、なかなか大きい声で言えない話である。
芸の世界を生きる芸人たちとて、霞を食って生きるわけにはいかないので、お金もなければいけないし、欲求も発散させなければならない。
徳兵衛は前妻との間に子どもが9人。奥さん出産しすぎて早逝されたんじゃ、、と言ってしまいそうだ。弟子だって何人も食わせなきゃいけないし、商売道具の三味線だって皮やら糸やら、たいそう経費のかかるものである。
茜は資産家であった父親が亡くなった後も、隠れた商才のあった母親のお陰で、何不自由ない裕福な生活を送っていた。
若き日にその三味線の音に惚れて一度だけつまみ食いされた露沢徳兵衛(清太郎)のことが忘れられなくて結婚しなかったが、かといって、うじうじ思い悩むでもなく、宝石買ったり、馬に乗ったりして、自由奔放な独身生活を謳歌していた。そんな中、前妻を亡くした徳兵衛に後添えにと求められ、当時としては行かず後家の年齢で、いきなり9人の子供を持つ芸人の妻となったのである。
なんというか、主人公の二人は人生の達人だと思うのだ。
徳兵衛は不器用な人柄と女好きの性を隠すでもなく、芸の道のためならいろいろ犠牲にしても、そんなには悪いと思っているフシもない。後添えに迎えた茜の実家の財力に頼ることも、感謝こそしていそうだが悪びれることはなく甘える。しかし、芸に関しては一切の妥協をせず、それは彼の芸をさらに高みに昇華させる。
茜はいい歳まで、しれっと実家の財力に甘えて自分の人生を謳歌するが、いざ惚れた男に嫁ぐとなれば、周りがそれはちょっとハードモードが過ぎるんじゃないの?という環境でも飛び込んでいく。案の定なかなかの苦労をするのだが、苦労は苦労としてあまり引きずらないというか、全力でやってるうちに忘れて、ただただ惚れた徳兵衛のそばに居られることを喜んでいるというか。
「ゆっくり鑑賞して過ぎるよりも、過ぎてから味わう季節感の方が鮮度があって茜は好きだ。」そうね、あなたの生き方そういうとこあるよね。とりあえず流れに突っ込んでみるみたいな。でも満喫してるよね。
本妻と二号てな話が、作中、何度か出てくる。この話は三味線の露沢徳兵衛(妻)と豊竹宇壺大夫(夫)という運命の夫婦である二人を、本妻である徳兵衛を妻として支える二号さんが茜という、我ながら何いってるんだかわからない状況ではないか思うのだが、あまり不幸は感じないのである。
今と価値観が違うからだけではないように思う。この人たちが今の世の中にいても、そこそこ幸せを掴みそうな確かさを感じるのである。彼らがいつも、あまりお金に苦労していないと言うことも大きな要因だと思うのだがそれだけでもない。
それは彼、彼女が自分のしたいことをして悔いがなさそうだからだ。その時々の価値観なんて物ともせず、上手くいってもいかなくても、やりたいことをやっている。
茜は芸人の嫁として、言ったり、したりしてはいけないことをわりと雑にする。あちゃー!やっちゃった、と思いながらも引き続き同じような間違いを続ける。徳兵衛にしたって手前の昔の女の後始末を女房にさせるとか、なかなかのクズっぷりなのだが、そんなことは瑣末なことなのである。
幻のような芸事の夫婦の中で夫が役割を全うすることこそ自らの望みだと、時々嫉妬しつつも屈託少なく明るく支える妻。自分の不甲斐ない部分を自覚しつつも、そうとしか生きられず、甘んじさせてくれる現実の妻に感謝しつつ自らは変わらない夫。
あくまでも自分本位なのである。しかしこうした(自分の)目的のためなら(一般的な)手段を選ばない人々がいたから、伝統芸能の道は続いてきたのではないかと思ってしまう。余人がしのごの言う余地はないのである。
茜の最後の台詞が、最初ピンとこなかったのである。しかし、これを書いていて気がついた。茜にとって、自分の生涯を賭けて作った「露沢徳兵衛」と言う作品の完成した瞬間に出た台詞があれだったのではないか。
何が大切で、何がそれほどでもないことなのか。それを本能的に選んで生きていける二人だ。失敗するかどうかにとらわれて、生き方を制限することの愚かさを教えてくれるような気がする小説なのある。