居るのはつらいよ

芽吹き時の春の初め、世情がコロナやらそれに伴う株価の暴落やらパニックによる買い占めなんかが続く不安定な時期に、不安定な人々の読み物を読むのは少ししんどかったな。

 

カウンセリングで臨床心理学を極めるのだと夢に溢れて沖縄の精神科クリニックに勤めることになった京都大学院卒の博士号を持つ青年が、現実を目の当たりにして徐々に疲れていくのを目の当たりにするようだった。ケア(日常や生活に密着した援助のあり方)とセラピー(カウンセリングにより表に出てこない心の深層にふれる方法)の違いについて非常に興味深く読んだ。

 

臨床心理学とか流行ってたもんね。仕事にはあぶれないだろうとその世界のトップで博士号まで取った著者を待っていたのは、家族を食わせるどころか自分1人食べていけるかどうかという薄給の雇用状況だった。

 

読みやすいのは非常に読みやすいのだ。さすが京大の博士さんともなると難しい話をわかりやすく置き換えて書いてくれたり、ユーモアを交えて文章を綴るなんてのはお茶の子さいさいなんだな。

 

読む本が導かれたような順番になることがある。村上春樹を読んでいて、本当の自分と表層の自分とは、とか考えていたら次に読んだ本がたまたまこれである。この本によれば「人が本当の自己でいられるのは誰かにずっぽりはまって依存していられる時、それが出来なくなるとき偽りの自己を作り出す」だそうだ。

 

子どもがお母さんにお世話になっているときのように、何かに完全に身を委ねているとき「本当の自己」が現れ、無理なく存在し「いる」ことが可能になる。対してお母さんがお世話に失敗して、子どもが身を委ねていられなくなると、生存が危うくなり彼らの「いる」は脅かされる。すると子どもはお母さんのご機嫌を伺ったり、お母さんを喜ばせようとし、そういうときに「偽りの自己」が生じると小児科医でもあり精神分析医であったウィニコットは言った。

 

他者に身を委ね、依存できる人が「いる」こと。これは普段人が無意識にしていることだが、それが難しい人が著者の勤める精神科クリニックの居場所型デイケアにやってくる。

 

人は余裕があるとき、「心」と「体」を分けておける。コントロールしやすく便利だからだ。デカルトが「我思うゆえに我あり」とか言って心と体を分割してくれたから近代科学の発達はスタートした。しかし余裕がなくなると心と体の境目は曖昧になり、どちらかの悪影響をもう片方が受けることになる。

 

心と体のバランスが不安定になった人と過ごすためには、深層を覗く「セラピー」よりも表層を整える「ケア」の仕事が必要とされることがあるようだ。「ケア」にはさまざまなニーズが発生する。それぞれの仕事のプロフェッショナルであることよりも、次々生じる脈絡のない仕事をヘタでも臨機応変にやり続けなければいけないのだ。

 

それは世の主婦(主夫)の人々がしていることであり、保育士や介護士の人たちがしていることであり、世の中でその低給が話題になることの多い仕事たちである。臨床心理士もケアの仕事が主体の場合の給料は低いらしい。

 

医療も経済の中で動いているからには収益性が重要視されることになる。それはいわゆる精神医療界の闇をも生むものであるらしく、ケアの仕事の難しさと相まって、著者をはじめ同僚の人々の精神を削っていく。

 

この薬を飲んだら治ります。この治療をしたら治ります。病や症状を抱えた人皆がそうだったらどんなにいいだろう。でも実際は、そばに「居る」という大変だが評価されづらく給料も高くない人々の仕事に支えられて、患いを抱えたまま生きて「いる」人がたくさんいるのだ。

 

自分だって患わなかったとしても順調に歳を重ねたら、今よりもっと人に甘えて支えてもらわなければ生きていけなくなる。そりゃ言いたくなるわ「居るのはつらいよ」。

 

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