認知症の親と「成年後見人」

最近よくある「親が歳をとったら読む本」。著者は「70歳を過ぎた親が元気なうちに読んでおく本」を出しているが、私見では60歳を過ぎたら早すぎるということはないように思う。

親が歳をとったときのことを考える時、人は混乱しがちだ。親の老いに対して感情的になり、初めて使う行政サービスに戸惑い、病院と介護施設とのやりとりに混乱し、なかなか冷静な対応をすることが出来ない。

この際、ビジネスライクにテーマをいくつかに区切った方が混乱しないように思う。現時点で認識できる課題について考えると、お金、介護、医療が大きな柱になるのではないかと思うのだ。この本は親が歳をとった時のお金の扱い方について書かれている。

最近耳にすることが増えた成年後見人制度。認知症や知的障害、精神障害などによる判断能力の衰えにより、本人に代わり親族や専門職の後見人が預貯金の管理や各種契約を支援するものである。

親が認知症になり、親のお金を銀行から引き出したり定期預金や貸金庫の解約が難しくなり、病院や介護施設への支払いが出来なくなる。配偶者の死去に際しても自らサインできないため子どもを含めた親族での遺産相続ができないなどの問題についてクリアにすることができるようになるらしい。

しかし親族だけが成年後見人になるケースは少なく、弁護士や司法書士などの専門職後見人が成年後見監督員としてつくことになることが多いそうだ。成年後見監督員には報酬を支払う必要があり、月に1~2万円、年間で12~24万円の支払いが生じることになる。この支払いは後見される本人が死ぬまで続き、途中で解約することはできない。そして、後見人と考え方がちがうと思っても解任することは出来ないそうだ。

一度後見人が選定されてしまえば、ちょっとした事でもお金を自由に使うことはできなくなり、いちいち申し立てをする必要が生じる。後見人によってその裁量は個人差があり、あちらでは通ったものも、こちらでは認められないなどのケースもあるようだ。

親の財産を無断で使ってしまう親族への対策という性悪説に立つのか、性善説に立つのかという視点だけではない。十把一絡げにならざるを得ないのは、システムである以上標準化し、本人の損失を最小にする可能性が高い手段をとらざるを得ないことは仕方のないことであるとも思う。

であるからこそ、著者の言う「親が元気なうちにやれるべきことをやっておこう」ということになるのである。

親のキャッシュカードの暗証番号を知っていますか?親が何の保険に入って、いくら払っているか知っていますか?(というか、自分自身が何の保険のためにいくら払っているかをちゃんと把握していますか?)親は必要のない貸金庫をコストをかけて借り続けていませんか?

これらを確認することは、普段のコミュニケーションがうまくいっていなければ、それこそ財産目当てに親族が取り入っているように見えてしまうだろう。普段のコミュニケーションこそが大切なのだと暗に述べているのだ。

人は親の老化を認識すると動揺する。肉体的、頭脳的、経済的能力が親を超えたとしても、どこかで親は絶対的なものであり、自分より上だと無意識に思っているからだろう。その親が老いて、今まで出来たことが出来なくなってくる。冷静になれないのは当然なのだ。

行政システムや医療・福祉サービスという標準化しビジネスライクにならざるを得ないしくみを、家々によってまったく異なる状況や常識や感情を持った人間が使うのだ。利用者は仕事としてでなく私人としてしくみを利用する。仕事中なら我慢できることでも、私人としては我慢できないこともあるだろう。

この本を読んでいても著者の主張にそうかなあと首をかしげる部分もあるし、現状の仕組みに、それはなんぼなんでも杓子定規なんじゃないのと意義を唱えたくなる箇所もあった。

必要な行政システムを利用することが有効な場合もある。情報を知った上でギリギリまで親族間で問題を共有し、自力で解決しようと努力することが最善なこともある。それぞれの状況や家庭によって、必要で可能な手段はまったく異なるのかもしれない。

 

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