すべての見えない光

般的にワンセンテンスは短い方が良い文章だと言われる。人は語りたいことがあるとき、伝えようとするあまりに冗長になり、過分になり、したがって伝えたいことは伝わりづらくなる。

 

ピューリツァー賞受賞作の本作は1文1文が短い。本来文章の評価など、読む人それぞれが勝手にすればいいことだ。しかしこの本は短い文の合間に色が見え、匂いを感じ、音が聞こえ、時代の空気を感じることが出来る。そういう文章には、なかなかお目にかかることがない。

 

なるほど、これが優れた文章というものか。しかし決して難しいわけではないのだ。にもかかわらず物語の構成は時系列、舞台となる国、登場人物たちの年齢など複雑に交差し、多岐に渡っているにもかかわらず、混乱することなく読者に理解できるようになっている。

 

読者である私は目の見えなくなった少女を慈しんで育てる父親の愛情に自分もこうありたいと思い、今はない未来を夢見て努力する少年の心に応援の気持ちを持ち、進んでいくその先の恐ろしい歴史を知っているからこそ、この物語の経過と終着点から目が離せなくなるのだ。

 

第二次世界大戦の末期、ドイツのヒットラーユーゲントの少年とフランスの盲目の少女は邂逅する。

 

少年は幼い頃から捨てられたラジオを直して、妹や孤児院の仲間たちとラジオを聴くのが大好きだった。ラジオからは、彼にはあらかじめ閉ざされていた未来の可能性が流れ出す。明るい未来の方角に、自分を、妹を連れていくために努力を重ね機械いじりの腕を磨いていく少年。

 

しかし時代は彼を、明るい未来でなく戦争の只中に導いていく。ドイツの機械いじりの大好きだった孤児の少年は、その腕を見込まれヒットラーユーゲントと思われる団体に所属することになる。

 

フランスの少女は病で視力を失う。父親は彼女に、生きていくための力を辛抱強く身につけさせる。父親は親子が住む町の模型を作り、街並みを覚えさせ、少女に外に出て歩く力を身につけさせる。
「彼は娘を安心させる。呪いなどない。悪運や幸運はあるかもしれない。それぞれの日が、いい日か悪い日かに、わずかに傾くことはあるかもしれない。 だが呪いはない。」

 

主要な登場人物が目が見えないということ、孤児であることは、社会的には弱者とみなされる人々から見る戦争を描き出す。マクロ的な目に見えやすい世界の中に、ミクロ的な目に見えづらい世界がある。

 

しかし全体の中で弱者とされる彼らは決して弱くない。自分の能力を知り、性質を知り、人を愛し、時代の流れに押され思わぬ方向に向かわなければならなくなっても、自らを見失わず懸命に生きようとする。

 

ドイツとロシアが絶滅戦争を戦い、欧州の多くの地域が戦争の渦中にあった中で、国が蔑み弱者とみなした人間たちは、自分たちの生まれや性質を受け入れながら精一杯生きて、人間はそれぞれが違うのだということを証明して生きてみせた。

 

彼らが懸命に生きた世界には、美味しい食べ物、美しい景色、自然の生き物たち、人が人とつながって可能性を信じることがあり、いつも光に照らされていた。物語に登場するいくつもの光。目で見える色を運ぶ光、植物が光合成をするための太陽の光、オーロラ、ラジオの電磁の波長。

 

見える光も見えない光も、人々を、この世界を照らし続ける。「おまえはどこまでやれるかな。」自分を問うことは、全体の中で自己を維持するための行為だ。誰にでも、光の中で自分らしく生きていく権利があるのだ。

 

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